2010年4月25日日曜日

兼松石居2



 最近は明治2年地図ばかり見ている。地図自体は大きくて広げるのが面倒なため、カメラで適当に撮って、それをコンピューターに入れて、プレビューで大きくして見ている。

 地図で実際に見るよりは、コンピューターで大きくしてみる方がよほど見やすい。拡大、縮小、回転が自由にできるため、こういった地図を見るには便利である。添付した写真をクリックし、その画面をさらにクリックして拡大すれば詳細をみることができる。

 茂森町のところで、兼松石居の長男、艮の家を見つけた。茂森から坂を降り、川沿いに兼松艮の名前が見える。その前には長尾介一郎の家もある。兼松石居の次女りか(後に長尾介一郎の妻、たけ)の話によると「古学校の地、今の東奥義塾のある所の長屋に居ました。その隣は柔術の道場で、外に家はなく、あたりは薮原で漆の木やその他草木が茂っていた。裏の方に加藤の家(大工町加藤清兵衞)があって。裏の方から出入りしました。外に親族はなかったのです。この時も父に習いに来た人もありました。
新邸の家は今の新町坂の方、さいかちの木の向こうの方で、川に沿って笹原が有り、その上の方に森岡さんの長屋、その上の方が私の長屋で、後の方には原さんという家がありました。今の藤田氏邸辺には十余軒ありました。この時にも習いに来た者がありました。」と蟄居当時のことを語っている。

 この後半部分の新邸が地図に見られるところであろう。当時、兼松石居は長男で藩校稽古館の先生をしていた艮と一緒にここに住んだのであろう。また次女りかの嫁ぎ先である長尾介一郎の家も向えにあること、当時この辺りは田畑、荒れ地であったとことから、長尾介一郎が尊敬する義父石居のために住まいを用意し、自分もそばに住んだのかもしれない(長尾家は200石とりの中級藩士で城近くに家がある)。ちなみに明治2年当時、石居は60歳、長男艮は27歳、次女りかは16歳、長尾介一郎は24歳であった。一方、前半の蟄居されていたところは、下の地図で、上銀町のところに修武場というところがある。解説に古学校と称す、明治3年より東奥義塾となるとなっている。この修武場の一部に長屋があり、そこに蟄居していたのであろう。また後ろには加藤清兵衞の長男、加藤武彦の名前が見える。加藤清兵衞は石居の兄であり、武彦はその長男である。江戸暮らしの長い石居にすれば故郷弘前にいる親類は少なく、長尾家、加藤家くらいしかいなかったのであろう。世話になっている。後に鞘師町で石居は死ぬが、明治2年地図には記載がない。後年、石居は東奥義塾の創立に関わるが、その場所がかって自分が蟄居していたところというのはおもしろい。

 明治4年の士族在籍引越之際地図には兼松一?郎、長尾礼?一艮?となっており、明治2年地図からの誤植であろうか。弘前市史付録図では原図をコピーしているため判別できない。少なくとも記載の正確さから明治2年地図をもとに士族在籍引越之際地図が作られたようだ。

 ついでに言うと、長尾介一郎の友人で探検家の笹森儀助の家が前に紹介した在府町の地図にあるので探してみてほしい。陸羯南の生家中田家の道を南に下り、2本目に道を右に折れたところに樋口小三郎家隣にかなりくずしているが笹森儀助(世森とくずしている)の名前が見られる。
またちょっと難しいが、本多庸一の実家も相良町と在府町の境に見られる。わかるだろうか、地図では本多八郎左エ門(門は口みたいになっている)とくずして記載されている。本多庸一父、本多八郎左衛門久元のことである。

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