2010年10月11日月曜日

弘前城 1



 来年2011年は、弘前城築城400年ということで、各種の催しものが企画されている。その一番の目玉として本丸御殿の復元が計画されている。ただ復元に必要な平面図や立体図がなければ、文化庁でも復元の費用を負担しないため、実現が困難な状況になっている。市関係者も懸命に資料がないかどうか市民に問い合わせているが、今のところ決定的な資料は発見されていない。弘前城の本丸御殿が完全に取り壊されたのが、明治17年だから、写真や絵図など相当残っていそうなものだが、御殿の一部が映っている写真があるくらいで、資料は非常に少ない。

 明治2年地図でも弘前城内部についての記載があるが、大まかな配置を示したもので、御殿復元の資料になるような具体的なものではない。ただ弘前博物館にある明治4年の地図に比べてこの明治2年地図の方が、お城内部の描写についてはより詳しく、当時のお城内部のことがわかって面白いので、2回に分けて説明したい。

 東門、弘前文化センターのところから入ると、まず見張り所がある、さらに東門を抜けるとまた見張り所がある。今の植物園、三の丸には大きな建物があり、その右側から廻ると、物見に挿まれた門から入ると玄関、その奥には中ノ間、御次、御広敷があり、左には御座敷、御常殿、右には役員、御台所などがある。また御座敷の左には大きな庭がある。これが三の丸屋敷である。三の丸屋敷を出て、さらに進むと、もう一つの門が見えてくる。この門の左には金銭上納方、評定所、町方役所、人別役所があり、右には郡方役所や役員用諸品渡所がある。さらに奥には勘定所、銭蔵、山方役所、掛方役所、掃除小人詰所などの建物があり、一番奥に稽古館学舎と小さな庭、図書館に相当する書冊蔵などが附属する。勘定所の右には7つの籾蔵が並ぶ。籾蔵といっても、これは非常時用の備蓄米倉庫である。

 三の丸の、三の丸御殿とは反対方向には6つの籾蔵が並び、馬場がある。ここには井戸があるが、わざわざ笹井と名前がついている。下馬橋の手前には腰掛屯所があり、橋を通ると、見張所があり、そこから右に折れ、内東門から二の丸に入る。進むと二の丸御殿があり、その横には籾舎、白米舎などがある。昔は御休憩所で、本丸、二の丸、三の丸にそれぞれ御殿があり、そこで政務が行われたが、この書き方では、二の丸御殿は江戸末期にはあまり使われていなかったのであろう。二の丸御殿の前には御馬屋掛員詰所がある。さらに進むと、北門があり、その奥には6つの籾蔵と隅矢舎などとともに弘前城の守り神、御舘神、太閤秀吉稲荷がある。この稲荷は江戸時代には開かずの宮と呼ばれ、密かに津軽家を大名にしてくれた豊臣秀吉に感謝するために秀吉の木像を安置していたようだ。徳川幕府に知られると当然処罰の対象になるため、絶対の秘密であった。徳川幕府に忠誠を尽くしながら、城の守り神に豊臣秀吉を祀るあたり、なかなかのしたたかさと剛胆さである。明治2年地図では、当然堂々と豊臣秀吉稲荷と書かれている。この豊臣秀吉像は、明治後に東京津軽邸に移され、現在は革秀寺・津軽為信霊屋内に安置されている。

 二の丸御殿とは反対側には駕篭屯所、馬場、御宝蔵、御金蔵、矢舎などがある。太鼓楼という建物はここに太鼓を置いて城下の武士に登城の合図をしたのであろう。同様に見張所が3つあるが、追手門に近いところから、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などをいち早く発見して役人に連絡したところか。二の丸の当たり周囲は八寸角塀で囲まれているが、他の場所は多くは土塀となっている。

 ここまで三の丸、二の丸の建物について述べた。それぞれの建物は結構大きく、後の調査によると米貯蔵に使って籾蔵は、発掘されたもので4間×12間、8m×24mの規模、文献では20間、25間、40m、50mのものが、二の丸、三の丸に6箇所、6箇所、7箇所の計19箇所あった(その他紙亀甲町にも)。

 また津軽ひろさき・おべさま年表の見返しにある「弘前舊城之圖」を見ると、三の丸御殿は48間(約90m)、評定所は34間(60m)くらいあるようで、とてつもなく大きい。本丸以外にも二の丸、三の丸にも政治機能を司る多くの建物があり、役職によっては二の丸、三の丸だけで仕事は終わったのであろう。三の丸御殿についても、本丸御殿ほどの規模ではないにしても、十分にここで執務が可能な規模であり、本丸御殿とどういった役割分担があっただろうか。また「弘前舊城之圖」はいつ頃の弘前城の図であろうか。明治2年の地図は詳細ではないとしても、「弘前舊城之圖」とは建物の配置や大きさがかなり違う。稽古館を見ても、「弘前舊城之圖」では小さな「学校」、「土蔵」と書かれているだけだが、明治2年地図では規模が大きく、庭や図書倉庫もある。また評定所、勘定所の位置も幾分違う。明治初期、あるいは明治17年に壊される前の弘前城の状況は、明治2年地図に近いものだったと推測される。

*地図は2MBくらいで載せています。最新のマックであればIphone, Ipad同様に非常に簡単に拡大、回転ができ、こういった地図を見るのは本当に助かります。地図をさして、トン、画像がでたらもう一度、トン、指でさらに拡大し、二本指で移動、自由に簡単にかなり拡大して見れます。

3 件のコメント:

久喜古文書研究会 さんのコメント...

広瀬院長様

楽しく読ませていただいております。

久喜古文書研究会 さんのコメント...

広瀬院長様

いつも楽しく読ませていただいております。
当方埼玉在住、昭和42年より44年迄3年間、高校時代を弘前で過ごしました。
現在、弘前藩元禄期の藩政や行刑を主テーマに研究している者です。
毎夏、弘前市立弘前図書館や新田地帯のフィールドワークの数日間が、この上ない愉しみとなっております。
ところで、もし差し支えございませんでしたら、2点程ご教示いただきたいことがございます。
1つは、国日記に頻りに登場して参ります「会所」についてです。まず、「会所」は「評定所」と同じものか否か、という点です。別物でしたら、「会所」はどこにあったのでしょうか?
2つめは、對馬万右衞門という人物について、御存知でしたらご教示願いたいのです。万右衞門は、元禄期、郡奉行・諸手足軽9番組組頭として活躍しました。武田源左衛門とは、ほぼ同時代の人です。ただ、藩主信政晩年期に、閉門の咎を受け、そのまま死亡・闕所となりました。万右衞門の屋敷所在地、墓標、万右衞門の治績について、どんな些細なことでも御存知であれば御願いしたく、メールしました。
  舘山誠拝 

広瀬寿秀 さんのコメント...

ブログ見ていただき、ありがとうございます。二点の質問ですが、幕末、明治期の弘前を主として研究していますので、いずれの質問についても、知識を持ち合わせていません。幕末には、20軒の”対馬”姓が確認されますが、”万右衛門”に一致する家はありません(名前を代々受け継ぐ場合もありますので)。罪人であっても、家だけは残す処置を取らせる場合もあり、万右衛門の子孫が続いて可能性はあります。会所についても、大阪、大津などの物流保管場所に弘前藩の会所はあったようですが、城内にあったかは知りません。申し訳ございません。