2011年9月11日日曜日

和徳小学校の藤岡紫朗、忠仁


 こうしたブログや本を出していると、さまざまな方からメールやお手紙を頂戴する。その多くは自分の先祖についての情報を教えてほしいとものだが、残念ながらあまりお役に立っていない。先だっても、北海道に住む方から、メールをいただき自分の先祖が和徳に住んでいたということで、色々と調べたが、これといった情報も見いだせず、申し訳なかった。

 その折、たまたま私の長女、次女が和徳小学校に行っていた関係で、「和徳小学校百二十年記念誌」(弘前市立和徳小学校創立120周年記念事業協賛会 平成6年)という小冊が家にあった。この本には創立以来の全卒業生の氏名が載っており、上記の方の先祖の名前もそこに見いだすことができた。それ以外にも誰かいないかとざっと見ていると、明治21年度卒業のところに「藤岡紫郎」の名前が見つかった。以前のブログでも紹介した戦前アメリカで活躍したジャーナリスト「藤岡紫朗」に間違いない。

 ところが藤岡は明治12年生まれで、和徳小学校卒業当時の年齢は、何と9歳ということになる。当時の尋常小学校(4年)は数えの6歳、満で5歳からも入学できたようなので、早ければ9歳に卒業して、高等小学校2年間、その後、弘前中学校に進学したのであろう。弘前中学は最初青森市にでき、明治22年に弘前に移るが、藤岡はその次の年の明治23年に入学したのであろう。

 順調にいけば、弘前中学を卒業するのは明治27年か28年、15,6歳の時で、藤岡の履歴によれば、その後犬養毅のところに書生となり、早稲田大学に進むも、17歳のころにアメリカに渡米する。早稲田大学に1、2年ほど行ってから渡米したことになる。

 藤岡と犬養毅との接点は、おそらく郷土の先輩、陸羯南であったであろう。犬養と陸は同じジャーナリストであり、また中国への関心も高く、東亜同門会の創立にも絡んでおり、知己であった。郷土の秀才の上京への願いをかなえるべく、犬養に斡旋したのであろう。

 さらに名簿を調べていくと、明治32年度卒業生に藤岡健治、明治35年度卒業生に藤岡さだ、明治38年卒業生に藤岡忠仁の名前が見られる。いずれも兄弟であろう。藤岡紫朗とは全く関係はなさそうである。このうち、藤岡忠仁は、1896年、明治29年生まれ、1919年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、戦前は京城帝国大学理工学部応用化学科主任教授、戦後は慶應義塾大学工学部応用化学科主任教授を務めた。戦後の慶應義塾大学工学部の復興に尽力した人物である。
(http://echem.applc.keio.ac.jp/history/fujioka.html)

 この藤岡忠仁は和徳小学校始まって以来の天才で、特に算数の才能はずば抜けており、その担任教師が自分の生徒がなぜこれほど勉強ができるか、文にして著したほどである。指物師の下級の家に生まれたが、その才をおしみ、教育費を出してくれるものがおり、高等小学校、弘前中学を卒業後は援助を断り、苦労して一高、東大と進んだ。

 弘前市立朝陽小学校、時敏小学校は、弘前の多くの偉人を輩出しているところで、また大成小学校も多くの軍人がここを卒業している。一方、和徳小学校は商家、農家が多かったことから、残念ながらこれといった人物はいなかった。今回、少なくとも藤岡紫朗、藤岡忠仁の二人の人物が卒業したことがわかった。

2 件のコメント:

やまや さんのコメント...

初めまして。
楽しく読まさせて戴きました。54歳の初老で御座います。

実家南横町→和徳小学校→弘前第3中学校→神奈川県立湘南高校→北海学園大学→公務員定年退職という人生であります。

従って、和徳小学校については、それなりの誇りを抱き、弘前全体を見守っております。
この8月、40年ぶりに中学校の同期会が御座います。

残りの人生、何とか「弘前」のためになりたい所存で御座います。
これからも、弘前のあらゆるルーツを紹介して下さい。楽しみにしています。

                          仙台市在住 山谷

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。私は坂本町に住んでいますので、ご実家は、隣町となります。
和徳小学校は、古い記録が残っており、千葉先生の研究、著書でも紹介されています。
町の有志によって建てられた三角屋根の校舎は、改修された現校舎でも、その名残が残っています。