2012年6月17日日曜日

武藤雄五郎




 武藤雄五郎について調べているが、全く手がかりがない。昔、用人をした名家であれば、少なくとも武藤の名くらいはどこかにでそうだが、それも発見できない。着物にある家紋は真田家の六文銭で有名であり、真田昌幸が武藤と名乗っていたこともあり、武藤家と六文銭家紋が関係ある。

 前回のブログでは、武藤雄五郎の子あるいは親戚として青山学院教授、日本キリスト教団第四代議長の武藤健を挙げたが、どうも関係なさそうである。武藤健はHPでは弘前生まれとなっているが、本当は八戸生まれで、八戸中学校から青山学院、そしてアメリカの大学に留学し、牧師となった。東奥義塾の卒業生のパターンである。父親の武藤一明は、明治元年114日生まれの医師で、山梨県出身平民とされている。八戸で明心堂医院を開業しながら、熱心なキリスト教徒となり、教会活動に従事した。また同じ牧師で、キリスト教新聞、賀川豊彦とも関連のある武藤富雄についても、明治37年生まれで、明治2年当時、19歳であった武藤雄五郎の子としては考えられないし、また出身は静岡県となっており、武藤健とも関係はない。

 現在、「新明治二年弘前絵図」を書いている。前に出した「明治二年弘前絵図」はおかげさまで300部すべて売り切れたため、その続編にチャレンジしているところである。前回の本では、古地図をメインに考え、文章は付け足しであったが、購入者の多くは附属しているCDはあまり活用されず、文の方しか読んでいないようだ。こちらとしては文を解説程度に考えていたが、読者からもっと説明をしてほしいという声が多かった。そこで、文の方に主眼を置き、絵図は印刷したものを付録としてつけるように考えている。折角なので、もう少し、前書では載せていなかった弘前の偉人についても、説明したいと考えているが、これがなかなか難しい。上記の武藤雄五郎もそうであるが、弘前大学学長、植物学者、郡場寛についても、その父郡場直世は、祖先の名に改名したことがわかっており、旧姓は白戸直世である。函館戦争では、手塚群平隊の二等銃隊として出陣し、負傷し、藩から脇差をもらっている。兄の名は白戸本太郎、親の名は御留守居組、白戸東太郎、さらに白戸宗之進の13代前の祖先は郡場助四郎とされ、二代信牧の時に召し抱えられていることはわかっている。

 そこで明治二年絵図で、「白戸」で検索すると、6軒ヒットする。白戸林之助(上瓦ヶ町)、白戸得弥(北瓦ヶ町)、白戸浪江(徳田町)、白戸九十郎(和徳足軽町)、白戸和吉(和徳足軽町)、白戸幸作(若党町)の6名である。明治2年当時の戸主は白戸直世の兄か親と思うが、白戸本太郎、東太郎の名はない。他の人物についても、いざ探してみると、なかなか見つからない。

 以前、読者から津軽斉という人物の問い合わせがあり、おそらく津軽図書のことかと思ったが、なかなか結論がでなかった。というのは、津軽図書は、名を津軽図書の他、尚友、武次郎、主水、済(わたる)と5つの名をもつ。千石取りの家老ですら、こうであるので、その他の中級、下級武士の名を特定するのは実に難しい。こうしたことがなかなか進まず、執筆が遅れている。一軒、一軒、寺の過去帳を当たるわけにもいかず、子孫の方からお便りをいただくと本当に助かる。

 写真はアメリカのHPに載っている矢川写真館での肖像写真である。明治の写真である。弘前在住の人の写真であろう。

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