2013年5月11日土曜日

白戸八郎


 白戸八郎(明治15昭和37年 1882-1962)という人物がいる。武術と馬術をもって仕えた弘前藩士白戸久蔵の二男として生まれた。父白戸久蔵については、もう少しくわしく調べないとわからないが、若党町に名が見られる白戸幸作あるいは、北瓦ヶ町の白戸得弥のことと思われる。

 明治34年に東奥義塾を卒業後、上京して本多庸一の書生として住み込みながら、青山学院から早稲田大学に移り、卒業後は一時、函館商船学校の教官を勤めた。その後、発心して、弘前に戻り、無資格ながら弘前教会の副牧師として目の見えない藤田匡牧師を助け、教会活動を行った。

 やがてアメリカ留学の機会を得て、メソジスト系の神学校で学び、日本人移住者の多いコロラド州を移り住み、ピアプロ市、デンバー市で教会を建立し、移住者の指導に当たった。デンバー市のコールファックス街には大教会堂を建設し、格州日本人美以教会として、数百の信徒がいた。また多数の学生、生徒、児童を集め、精神的な大きな感化を与えた。現在のシンプソンメソジスト教会で、日系アメリカ人の処点となっている。

 健康を害して、大正5年(1917)に帰国し、札幌教会に勤めた。その後、東京郊外の中野など中心に打超教会など設立し、積極的な教会活動を行っていたが、日本メソジスト教派の任命制などの構造的矛盾点に楯突く格好となり、首脳部と対立し、そして脱退して中野にいかなる教派にも所属しない単位教会の先駆けとなる「新生教会」を設立した。この教会は白戸八郎の二男、二郎が跡を継いだ。一方、長男の白戸一郎(Ichiro Shirato 1911-1997) は、八郎が過ごしたデンバーで生まれ、アメリカの大学に学び、コロンビア大学教授となり、40年間に渡り、アメリカでの日本語教育で大きな功績を挙げた。1941年に、日本人で唯一、パナマ運河に建設に関わった土木技術者である青山士(Akira Aoyama)の長女、青山まさ(1916年生まれ)と結婚した。またコロンビア大学のドナルドキーン教授とは親しく、現在、コロンビア大学日本学科では白戸一郎の業績を記念して白戸一郎日本語学習基金が設けられている。

 父白戸八郎は、祖国日本では、アメリカのメソジスト教団本部に対抗して、日本独自、天皇制の下でのキリスト教を提唱し、中国大陸、東南アジアの占領国への積極的な普及を行ったのに対して、長男の一郎はアメリカの大学において、アメリカ諜報機関に対する日本語教育に従事した。双方とも非常に矛盾した生き方とは思われるが、時代を後から評価するのはおかしく、どうも弘前の武士出身の牧師は、勤王の志が強く、海外留学しても容易に洋化しない傾向があるように思える。一方、アメリカではキリスト教への強い信仰心が人種の壁を越えて、愛され、場所が違うせいか、西部のように収容所には入れられずに、アメリカ人の中で活躍した。

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