2014年2月6日木曜日

弘前藩領絵図 神社仏閣からの検討








 弘前藩領絵図には、6つの神社あるいは寺の絵が描かれています。いずれも森と建物の略図が示されています。弘前藩には多くの神社仏閣がありますが、敢えてこの6つのみ絵で示したことには何らかの意味があると思われます。ここではこの6つの神社仏閣について検討します。

1.  古懸山
碇ヶ関近くの山の中に「古懸山」と読めるところがあります。難しい漢字ですが、木編に曳に近い字の村があり、「しゅうむら」(2021.2 コメント指摘、 モチノキ)と読みます。享保11年(1726)に「古懸村」から分村したとあります。この村の東の山に「古懸山」があり、横には「石部」と書かれています。「唐牛村」との間から道があり、この寺に向かっています。これは明らかに現在の碇ヶ関「古懸山不動院国上寺」です。津軽三不動のひとつで非常に古い寺です。二代藩主の信枚によって不動院国上寺と名付け、祈願所としたところです。なお碇ヶ関には□のマークがあり、出湯と書かれています。

. 妙見
青森の横内付近に「妙見」と読めるところがあります。「金澤村」と「牛館村」の間くらいです。これは「横内妙見宮」(大星神社)でまちがいありません。ここも信枚が再建した祈願所で、由緒ある寺です。

. 高岡
これは「百沢」近く、岩木山麓で、「百沢寺」か「高照神社」でしょう。高岡は享保6年(1721)には5代藩主津軽信政の廟所として作られた高照神社の門前の町割りとして作られた集落ですが、古来この地は高岡と呼ばれ、ここでは高照神社より百沢寺の方が合いそうです。百沢寺は後に岩木山神社になりますが、津軽真言五山のひとつです。これも二代信枚が焼失した伽藍を再建しています。

4.久渡寺
これは弘前郊外にある久渡寺のことです。これも津軽真言五山のひとつで、ここも二代信枚が再興した寺です。どうもここまで信枚関係の祈願所の寺が選ばれているようです。

5.雷電
「治タテ」と書かれた村の海沿いに「雷電」があります。場所からして、平内町の「雷電宮」でしょう。くわしくは調べてください。

6.廣セ
私と同じ名前の「廣セ」という地名が、現在のつがる市の館岡から屏風山の方向にあります。ここがどこかが難しいところです。グーグルマップなどで探してみると、亀ヶ岡遺跡で有名な亀ヶ岡近くは、スイカが名産で、このあたりを広瀬山というようですが、地名としては全く残っていません。近くの神社仏閣を探すと、羽黒神社、洪福寺、雷電宮、弘法寺があります。当初は藩領絵図の場所に近い、羽黒神社が候補かと思いましたが、これまでの5つの寺をみると、どうも祈願所が選ばれているようです。そうすると平内の雷電宮と同じ名の雷電宮が候補に挙ります。ところが「奥富士物語」の中に、「広瀬宮」という名がでてきます。広瀬宮(広瀬明神、長浜村(出来島付近)—木造町、明治六年館岡村)と「奥富士物語の世界」(荒井清明)とあります。深浦の龍田宮(龍田明神)、五本松の加茂宮(加茂明神)、野内の貴船神社を合わせた4つの宮を郡内四社と呼んで、風雨順調、五穀豊穣を祈願したようです。「元禄十一年九月十八日、広瀬宮と龍田宮へ御棟札仰せ付けられる。同日、外が浜妙見宮御遷宮。古懸へ御棟札仰せ付けられる。翌十九日、五本松の加茂宮御厨子御建立」となっています。
広瀬宮、妙見宮、古懸山、すべて二代藩主の津軽信枚がかかわっています。ということは、弘前藩領絵図で描かれている「廣セ」の絵は、広瀬宮のことで、現在はなくなったものと思われます。場所は長浜村となっていますが、現在の七里長浜は完全に海岸線ですが、この絵からはもっと内陸の山にあったものと思います。

 以上のことから弘前藩領絵図に描かれている神社仏閣はすべて、二代藩主津軽信枚が関わっているものです。またいずれも藩の祈願所であった寺のようです。村名を調べていると享保年間(1716-1735)に改名した村が多く、享保10年から絵図が作られたことが、本田伸先生の論文からわかります(消えた松前 —未発見の津軽領元禄国絵図に関する小考—、北方社会史の視座 二巻、清文堂出版)。この中で「郷村帳並絵図改覚書」を細かく分析していますが、国絵図に相当する大型の絵図で、村名、村高なども描かれており、また村形は肉色にすること、木形を使い、大きさを揃える、一里塚は2つ星にすることなどが決められています。弘前藩領絵図では、村形には木形が使われ、色も肉色となっていて一致しますが、村高は書かれておらず、大きさも国絵図の半分くらいの縮尺です。享保年間の絵図の完成は享保12年(1727)以降と思われますが、国絵図のような3mを越える大型の絵図は、実用的ではないので、その縮小版として1/2の図を後日、作った可能性があります。享保絵図ができて早い時期にその縮小版が作られたとも考えられます。すると1727-1780年まで下限は下がるかもしれません。

 本日、図書館で現物を確認しましたが、折り目が前のブログで示したようにありました。薄い美濃版の和紙に描かれており、きれいに裏打ちされています。250年以上前にものであれば、かなりきちんと保管してきたようで、コンデションはいいと思います。古くて価値のあるものであれば、これもデジタル化したいと思います。専門家による確認をお願いしたいところです。


2 件のコメント:

本田 伸 さんのコメント...

「奥州通道中記」という資料を読んでいたら、碇ヶ関付近に「楰村」というのがあり、「モチノキ」とふりがなされていました。お役に立てば。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。絵図上で確認しました。碇ヶ関の隣村です。さらに北には唐牛村が確認できます。
絵図自体は、弘前図書館にありますので、一度、見てみてください。江戸中期頃のものと思われますが、寄贈してからほとんどしまいぱなしと思われます。寄贈前にきちんとデジタル化しておけばよかったのですが、手持ちカメラで50枚ほど撮影しただけで、パソコン上で拡大してもはっきりしません。できれば図書館でデジタル化してほしいのですが、予算がないのでしょう。一番簡単な、カメラで撮影し、画像を繋げる方法でも、数万円かかります。大型のスキャナーを使えば数十万円かかります。