2014年1月31日金曜日

弘前藩領絵図 天災からの検討


 寛政四年1228(1793.2.8)におこった寛政西津軽地震は、震源大戸崎の約13kmを震源地とした推定マグニチュード6.9から7.1の地震で、鯵ヶ沢、深浦を中心とした西津軽で大きな被害をもたらした。この地震では地形変化もおこし、今では観光名所になっている深浦の「千畳敷海岸」もこの時に隆起したものとされる。さらに鯵ヶ沢の弁天崎はこの時の地震で海中に没したという。

 これは先のブログで述べた「字鉄崎」のケースと似ている。「弁天崎」は弘前藩絵図にも記入されており、これもこの絵図の製作年代が1793年以前という証拠になろう。

 「字鉄崎」もこの寛政西津軽地震と関連して崩壊したと考えていたが、どうもこの地震の被害は深浦、鯵ヶ沢付近に限定しており、三厩近くの字鉄崎まで地形変化をおこすほど大きな影響があるとは思われない。そこでその前の明和大地震(1766)かとも思ったが、震源地が弘前、黒石あたりで、内陸地震で断層線が竜飛岬方向に続くとはいえ、それほど大きな地形変化をおこすとは考えにくい。実際に三厩での被害は少ない。

 他の天災としては、津波がある。先の東日本大震災でも沿岸部を中心とした地形変化が起こったことは目新しい。そこで竜飛岬近くで起こった大きな津波を探すと、1741年におこった寛保津波がある。これは竜飛岬の北西部にある渡島大島が大噴火し、その山体崩壊により大きな津波が発生した。長谷川の研究(1741年に蝦夷地・北部日本海沿岸地域を襲った寛保津波)によれば、北海道の石崎では20mを越える大津波があったという。大島が津波の発生源とすれば、単純に考えると、字鉄崎からみれば北西からの津波となる。おそらくは石崎同様に20mを越える津波であったろう。三厩付近の村は沿岸にあるものの津波方向とは平行にあるため、村への直接の被害は少なかったかもしれない。ただ沿岸から突き出た岬については、もろに真横からの大きな津波を受けたに違いない。それにより岬の付根が浸食され、島となった可能性はある。

 弘前藩領絵図の作製年が、1790年以前ということは確実であるが、1741年以前かとなると否定すべき要素はないものの、あまりに古すぎる感じがする。大津波である程度、浸食されていたものが、その後、さらに波による浸食を繰り返し、いつのまにか陸と切り離されたと考えた方がよさそうである。ある時期を基点として一気に崎から島になったのなら、どっかに記録があってもよさそうである。

亀ヶ岡村(現つがる市)は享保11年(1726)に瓜生村と改称し、瓜生村の枝村が独立して館岡村となったとの記載がある。文化年間(1804-1817)に新たな別のところに亀ヶ岡村ができた。絵図では「瓜生」、「館岡」の名はあるが、亀ヶ岡の名がないところから、享保11年以降のものである。なお瓜生の西には「廣セ」と呼ばれる地名があり、そこには森に囲まれた建物の絵が描かれている。場所的にはつがる市の羽黒神社のようだが、この絵図ではよほど大きな神社でないと、あえて取り上げられず、この図が何かはわからない。

この絵図のおかしな点は、岩木山神社が描かれていないのに、平内の雷電には雷電宮らしき絵が描かれていたりする。神社については、次回もう少し検討する。高照神社横には高岡の地名があるが、これは高照神社の門前にできた地区で享保6年(1721)という。これも上記、瓜生村と同様に1720年以降の話である。

0 件のコメント: