2014年1月29日水曜日

弘前藩領絵図 折り目からの検討



 弘前藩領絵図について、前回のブログでは、折り目が一切ない一枚ものであると述べた。ところが、知人から江戸期に作られた大型の絵図で、一枚ものはない、巻かれて保存することはなく、必ず折り畳んで蔵や部屋にしまわれていたはずだとの意見をいただいた。もし折り目が全くなければ、明治以降のものだと考えていいそうだ。

 実際、この絵図が自宅にあった時は、明治二年弘前絵図と一緒にボール紙の芯に巻かれていたため、折り目があるとは全く考えていなかった。ただ知人の意見を参考に、もう一度、写真をじっくり見ると、何カ所かに折り目のようなものが見られる。皺を伸ばした状態で裏から和紙によって裏打ちされ、折り目がわかりにくくなっているようだ(上図)。

 美濃判と呼ばれる大きさの和紙(37cm×27cm)を横に5枚、縦に6枚、貼り合わせて、195cm×164cmの紙を作り、おそらくは下地処置をした上で、描写、彩色していっていたものと思う。

 折り目については、横は3つ、縦は3つの折り目があるようだ。横については比較的はっきりとした折り目がわかるが、縦の折り目がはっきりしない。ただ“小泊”の南、“野内”の南の折り目の交差部に修復箇所があり、こういった折り目の交差部分は破損しやすい点に一致する。これらから絵図は縦、横とも2回ずつ折られて、保管されていたと推測され、その場合の大きさは横49cm、縦41cmとなる(下図)。この大きさなら十分に折り畳んで保管できる。

 さらに折り目から推測すると、前回のブログでは四辺がカットされているのではと述べたが、完全に大きさは一致し、カットされたという推測は否定される。

 絵図上の村から推測した作製年代は1760-80年としたが、おそらく幕末、明治初期ころに裏打ちして一枚ものに仕立てたのであろう。補修箇所が何カ所見られる。裏打ちし、補修し、一枚ものとした方が机の上などで見るには都合が良かったのであろう。どういった理由で、この時期に古い絵図を裏打ちして補修したのかはわからない。ただ保有者が、楠見家に繋がる関係から廃藩置県に伴う弘前藩の政策上、必要な絵図であったのであろう。

 現物を実際に見て、確認しなければいけないが、弘前藩領絵図には折り目があるようで、絵図のタイトルがないほかは、ほぼ江戸期に作製された絵図と考えてよさそうである。オリジナルか、複写かははっきりしないが、タイトル、作製年度は絵図の裏に書かれていて裏打ちの際に見えなくなった、あるいは当初は表紙、箱書きがあったものが、裏打ちされ、一枚ものになった際に表紙、箱が紛失した可能性もある。

 幕末期、明治初期に補修し、裏打ちされたとすれば、製作あるいは模写された時代はそれより古く、“東西南北”、“南部領、秋田領”の加筆以外は、案外、オリジナルの可能性もある。というのは幕末、明治初期に補修されたものであれば、少なくともこの時代からは相当古いものであることを意味する。明治二年が1868年であるから、この50 年前とすれば1816年であり、オリジナルの推定製作年代は1760-80年とすれば、近い。明治二年弘前絵図には破れや補修箇所もないことから、保管状態は良好で、145年たっても維持できていることからも、和紙の寿命は長い。仮に250年前に作られ、150年前に一度修復補修されたといっても十分に信じられる。さらに岩木山はじめ、山や海岸線の岩の表現様式が大和絵風になっており、時代の古さを感じさせる。

ここまでわかったこととして
. この弘前藩領絵図は、これまで知られている国絵図、分間絵図とは地形が異なる。
2.天明飢饉(1784)により廃村になった7つの村のうち6つの村名が認められる。
3.寛政の新田開発(1800)に新たにできた21の新村についての記載はない。
4.三厩近くの「ミサゴ島」は「字鉄崎」、竜飛岬(龍濱崎)の小島「帯島」のアイヌ語に基づく「ヨンヘイ島」と、1800年以降見られない古い呼名が使われている。
5.縦横、それぞれ3つの折り目と、折り目に沿った数カ所の破折部があり、裏打ち、修復され、一枚ものとなっている。
6.同封されていた「明治二年弘前絵図」と一緒に、明治初期からこれまでずっと保管され、その間に修復などはなかった。
7.美濃判による和紙30枚を貼り合わせたもので、縦横2回ずつ折られ、195cm×164cmの絵図が49cm×41cmになったと推測される。四辺の切取りはなく、絵図の題、作製年月日の記載はない。
8.以上のことから弘前藩領絵図は、1780年以前、おそらくは1760-80年代のオリジナルあるいはそれ以降の写しと思われる。


時代の上限について、地名から検討しているが、今のところ大きな進展はない。弘前藩領絵図上で、新田と名付けられた地名は、「折紙新田」、「蝦名新田」(蛇石新田の間違いでした2014.3.2変更)、「堀越新田」の3つで、いずれも大鰐組に属する村である。「続つがるの夜明け 中巻」に載っている宝暦年間の「陸奥国津軽郡御検地水帳」(1754)には大鰐組にはこういった新田村の名はない。折紙川、虹貝川に沿った小さな村で、村ができた時代がわかれば、もう少し上限は絞られる。

なお、広田組、赤田組、後潟組などの組分の主要村の地名は、絵図では小判型の図が赤く縁取られている。小判型には赤色と黄色があるが、どういった意味をもつのかははっきりしない(村の大きさ?)。 

さらにこれは証拠とは言えないが、天明4年(1784)「山所書上覚」(諸山之上山通より西之浜通迄中山通より外浜通古懸山迄御山所書上之覚)に見られる西之浜地区の16の村領惣山名、中村沢目村(中村、口に巴)、赤石沢村(赤石)、大童子沢村(大童子)、関村、金井ヶ沢村(金井沢)、田野沢村(田沢)、晴山村、風合瀬村(風合セ)、轟木村、追良瀬村、広戸村、深浦村、岩崎村、森山村、松神村、黒崎村などの地名は絵図上にすべて記載されている(()は記載名)。

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