2014年3月22日土曜日

あるときの物語



 何となくテレビをつけていると、珍しくインド映画がやっていた。コンピューターをしながら見ていると、いつの間に映画に引き込まれ、あっという間の2時間であった。映画の題名は「スラムドッグ$ミリオネア」。私は全く知らなかったが、アカデミー賞をとった有名な作品である。インドの問題点をみごとに描きながら、エンターテイメントとしても実にまとめられている。

 小説は、それほど読まないが、日系の作者か、珍しいなあとして読んだのが、「あるときの物語」(ルース・オゼキ著、早川書房)である。上下二巻の大著であるが、「スラムドッグ$ミリオネア」同様に一気に読めた。上質なワインのような作品で、長年あたためられた主題を緻密な構成のもとに、ひとつの作品としてみごとに構築しており、読後は不思議な感覚を呼び起こす。いい料理を食べた時の食後の至福感を感じる。

 この作品には、多くの軸がある。ひとつは「時代、あるいは時間」である。最も大きな構成要素である。「現在」とは物語の一方の主人公であるカナダの僻地に住む、ルースとその夫、オリバーの物語である。ニューヨークの生活に疲れ、カナダ、ブリティシュコロンビアの小さな島での生活にも違和感を感じる、この夫婦とそれを取り巻く住民、痴呆症のルースの母の現在の物語がある。それに対してナオという日本人の手紙、実は10年以上前に書かれたものだが、ここに「10年前」というもう一つの時間の物語がある。さらにナオの曾祖母のジコウという104歳の尼僧の物語、そしてその長男、特攻隊員として戦死したハルキ1とよばれる人物の物語がある。現在、10年前、そして戦争中の時間、時代が階層的に積み上げられていき、そして最後にそれらが渾然一体となる。「今 ナウ」あるいは道元の「有事」という言葉が頻繁にでてくるが、著者オゼキの略歴を見ると、現在、曹洞宗の僧であり、僧侶としての時の解釈が作品に大きな影響を与えている。時間の不可思議さが流れる。

 次に「空間あるいは場所」の軸である。舞台はカナダと日本、それも大都市ではなく、カナダの電気もしょっちゅう止まる人口50人以下の小さな島にあるホエールタウンという村、東京という無機質な町、そしてジコウの住む宮城県の人里離れた寺、これらが古い通信手段の手紙、日記という紙媒体と最新のインタネットで繋がっている。さらに「世代」という軸も考えても良い。ジコウは104歳、ナオは16歳、そしてルースは40歳代、若者、中年、老人、それぞれの世代は違うが、不思議に共通項も多い。「人種」、「言葉」、「宗教」といったキイワードも重要であろう。ルースは日系日本人、その夫、オリバーはアメリカ人、ナオは日本人であり、本書に登場する言葉も日本語、現代語と戦前の日本語、フランス語、もちろん英語もある。さらに曹洞宗、道元の正方眼蔵からの引用が多い。

 「時間」という縦糸に、「空間」、「世代」、「人種」、「言葉」、「宗教」という横糸でみごとに編まれた、美しい模様をもつ絨毯のような作品である。一部、同じ日系人であるイギリスのカズオ・イシグロの初期の作品のような、やや日本人としては異質な感覚がちくっと感じられるが、むしろそこが海外の作品である証なのかもしれない。あとがきによれば、東日本大震災の前に作品は完成していたが、その大惨事を目の前にして、すべて書き換えたという。日本語訳が非常に美しいのも魅力を増している。原題は「A tale for the time being」 、より内容にふさわしいタイトルである。

「あるときの物語」上下(ルース・オゼキ著、早川書房)  ★★★★★



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