2015年5月27日水曜日

明治期の女医 外国医学校組


 最近でこそ、女性の社会進出は著しく、例えば医学部、歯学部でも私の時代は女子学生の比率は1割程度であったが、近年はほぼ40%-50%になってきている。女性経営者、政治家についてはまだまだではあるが、それでも会社での女性の地位は次第に高くなってきており、上司が女性であるということも、そう珍しいことではなくなった。これが戦前となると、女性の職業は先生か医者に限られていて、優秀な女学生は金がなければ師範学校、金があれば女子医専というコースに進んだ。今回の拙書「津軽人物グラフィティー」でも、こうした困難な時代、主として明治時代に生きた女性を多く扱ったが、ここでは明治初期の女医について少し話したい。

 日本最初の女医は、埼玉出身の荻野吟子であることはよく知られている。夫からうつされた淋病の治療を受ける際、治療する医師がすべて男性という屈辱的な経験を通じて、女医を志した吟子であったが、当時、女医になる道は全くなく、最初は東京女子師範学校に入学する。そこを首席で卒業したが、医師への志を捨てることができず、私立医学校、好寿院に入学し、3年間、男装して男子に混じり、医学を学び、最初は医術開業試験さえ受けることもできず、ようやく願いがかなったのは、明治17年のことで、翌年、後期試験にも合格して、ここに初めての女医が誕生した。

  女性の医籍登録、第一号がこの荻野吟子で、登録日が明治1812月で、二号は埼玉出身の生澤クノが明治20年3月、そして三号の愛知出身の高橋瑞が明治2011月となる。以降、女医になるためには、私立医学校(予備校のようなもの)で勉強して、医術開業試験に合格する方法が主流となっていく。医籍登録の25番目まで、済生学舎出身が18名、好寿院が2名、成医会医学校が1名、不明が2名、そして外国医学校卒業が2名となる。さらに26番から50番までみると、不明の1名を除くと、すべて済生学舎出身となる。51番から75番をみると、13名が済生学舎、不明が8名、大阪慈恵が2名と、外国医学校が2名となる。76番から100番までみると、やはり済生学舎が9名、大阪慈恵が9名、関西医学院が2名、その他が3名、外国医学校が1名と、関西方面の医学校からの女医が増えてくる。明治期の女医のほどんどは私立の医学校で学び、開業試験を受けたが、一部は外国の医学校を卒業したものがいた。ただ明治37年には医術開業試験を10年後に廃止することが決定したため、正式な医学校の卒業生でなければ医者となれなくなり、済生学舎も明治36年に廃校した。

 当時、外国の医学校を卒業したものは、自動的に医者になれたので、医術開業試験に合格して医者になる方法以外に、海外に行って、そこの医学校を卒業する手もあった。明治期、実際にそうした方法をとった女性たちもいた。岡見京は明治22年、ペンシルベニア、菱川ヤス(神奈川)が明治24年、阿部ハナ、須藤カクが明治31年4月、井上友子は明治36年3月、ミシガン、登録177番の明山(中川)もと、曽根(相沢)操がペンシルバニアで明治43年に医師となった。その後は、女子医大ができたこともあって、外国医学校組はほとんどいない。

 岡見、菱川、阿部、須藤はすべて横浜共立女学校を卒業してアメリカの女子医学校で学んだことはすでに、このブログで述べた。井上友子は長崎の活水女学校を卒業後、福岡英和女学校に勤務したが、その後、渡米して、クリーブランド医大、ミシガン大学医学部で学び、医師となった。曽根(相沢)操は、明治18年に岩手県胆沢郡金ヶ崎町の牧師の娘として生まれ、尚絅女学校(仙台)、同志社高等科を卒業し、明治398月に中川もとと一緒に渡米し、9月のペンシルベニア女子医学校に入学、43年に卒業後、帰国し、医籍登録をした。中川もとに関しては、兵庫県出身、同志社高等科在校時に選ばれ、相沢操と一緒に渡米したことのみがわかっている。

「横浜山手病院について 12 横浜婦人慈善会の発足まで」(内田和秀、聖マリアンナ医科大学雑誌、42.2014)によれば、1888年、ヴァンペテン、稲垣寿恵子、二宮わか、および平田平三牧師らが中村八幡谷戸と呼ばれる貧民窟を視察したのをきっかけに、1889年に100名程の会員が集まり、横浜婦人慈善会が発足した。初代会長は稲垣寿恵子、副会長には平田かく(平田牧師の妻)、会計には二宮わかが就任したとある。稲垣、二宮はともに横浜共立女学校の卒業生で、岡見、菱川、阿部、須藤とも親しく、後に婦人慈善会病院(根岸病院)の発足に際して、菱川、阿部、須藤らが勤めたのは当然であった。さらに平田平三牧師は弘前出身で、その妻、もと(上記かくは間違い)は山鹿旗之進の妹で、これも弘前出身、その点で、須藤かくとは同郷であった。

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