2015年11月23日月曜日

弘前城本丸御殿 熊本城から考える

熊本城 御城内御絵図



確か、この熊本城遠景が直接資料となった



弘前城本丸御殿

 福岡の学会期間中に足を延ばして熊本城に行った。博多駅から新幹線で40分、驚く程近い。朝の8時に天神のホテルを出て、地下鉄で博多駅、そこから新幹線で熊本に、熊本駅から路面電車で熊本城へ、9時半ころには着いた。そこで2時間ほどいて、熊本駅で熊本ラーメンを食べ、新幹線で博多駅に戻り、そこからタクシーで学会場に1時には着いた。みんな驚いていたが、そんなに急いだ旅でもなかった。

 熊本城は初めてだったが、今回は本丸御殿の復元に興味があって、見に行った。弘前城でも一時、本丸御殿の復元を目指したが、資料がなく、現在、中断中である。同様に盛岡市も盛岡城の復元のための絵図、古写真を、丸亀城も賞金1000万円をかけて隅櫓に資料を探している。逆に佐賀城、彦根城などは資料を見つけ、最近、本丸御殿の復元に成功して、多くの観光客が訪れている。

 熊本城も天守閣は昭和30年代に作られた鉄筋コンクリの復元城であり、外観は昔のままだが、内部はほとんど復元されていない。近年の文化庁の見解からみると熊本城はかなり問題がある復元で、今ならまず許可されなかったと思われる。現在は、十分な資料があり、それをできるだけそのまま再現する方法が取られており、名古屋城の本丸御殿も最近完成したが、建築工法とも徹底している。名古屋城は戦前、空襲で喪失されるまであった建物で、写真が数多く存在しており、細部まで忠実な復元が可能であったが、多くの城やそれに附属する建物は、明治初期に解体されたものが多く、写真がない場合が多い。

 熊本城、本丸御殿の復元では、二つの資料が重要であった。ひとつはお城全体を記載した絵図で、部屋の数、名前、位置などが記載されている。これは弘前でも同じような資料がある。運のいいことに、熊本城では、この古絵図の裏に本丸御殿の外観が描かれていた。左右からの大まかな外観はそれほど大きくは書かれていないものの、特徴はつかめる。もう一つの資料は西南戦争前に熊本城をとった写真である。全体を撮影した写真なので、一部しか写っていないが、大きな参考になる。本丸御殿は住居跡の発掘調査で部屋数、大きさがかなりはっきり分かっていたが、これだけでは復元の可能性は低い。この古い写真(明治初期)と絵図があるおかげで、復元できた。

 翻って弘前城と比べると、本丸御殿の配置、大きさは古絵図、発掘調査でほぼわかっていると思われるが、いかんせん、御殿の写真がない。東側から天守閣越しに一部の屋根が写った写真が1枚あるだけで、外観を写した写真が1枚もない。また外観の概略を描いた古絵図もなく、この2点が熊本城との差であろう。熊本城の天守と御殿が焼失したのは西南戦争時(明治10年)で、他の城もこの頃に破壊され、記録が残っていない。

 弘前城の本丸御殿の復元も、今後新たな資料がでない限り、中断のままだが、一方、何らかの資料、ことに本丸からの写真、図が発見できれば、一気に実現が進む。熊本城御殿の復元に見られるように、小さな絵図、写真の1枚でもあれば、復元可能であるので、何とか見つかればよいと思う。弘前には海外から宣教師が多くきており、中には本丸御殿に入り、その内部の状況を文にしている。明治7年に弘前の東奥義塾に勤務したマックレーは本丸御殿に入り、その内部の状況を報告している(洋学受容と地方の近代津軽東奥義塾を中心にー。北原かな子)。熊本城の復元された本丸御殿を見ると、和式の建築のせいか、弘前城本丸御殿と共通する型式が多く、ある程度は決まった様式で建築されたものと思われる。そのため、外見はできるだけオリジナルに近いように復元を求められても、内部については推定でも許可されるのかもしれない。

  

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