2016年8月25日木曜日

飯田巽

京浜実業家名鑑から

 飯田巽は幕末から明治にかけた活躍した官吏、実業家で、弘前藩でも非常に優秀な人物だったようで、“津軽人物グラフィティー”でも取り上げたかったが、資料が少なくて諦めた。先日、弘前市立図書館に行って関連書物を調べたところ、多少のことがわかったので、報告したい。

飯田巽(いいだ たつみ 天保十三大正十三 1842-1924
 弘前出身。日銀理事。式部官。従四位勲四等。津軽藩士飯田勇蔵の長男。江戸津軽藩の別邸で生まれた。はじめ虎之丞、のちに巽、雅号を聴泉と号した。安政三年十二月、小姓組役、翌四年六月に藩主承昭の近習役、元治元年に近習小姓役に昇進している。明治五年大蔵省出納寮十四等で中央官界に入る。その後、昇進し、明治八年には出納大属、司計課長に昇進する。旧幕府の大副帳方式を一新して、西洋式計算方法に変更する。明治十六年には松方大蔵卿から日本銀行理事を命じられ、日銀の国庫局長になった。全国100余行の国立銀行紙幣を消却処分して日本銀行券だける大事業を成功させ、その手腕を買われ、皇室の財務整理にも関わった。明治三十一年には官を辞して、実業界に入り、日本郵船監査役、日本煉瓦株式会社、加納鉱山株式会社の取締役、日本赤十字社の監事などを勤めた。このあと津軽伯爵家から家政相談員を委嘱され、家憲の制定にあたった。青森県人の学生寮として東京に修養社を創設するときに委員として大いにつくした。(青森県人名大辞典、東奥日報社、昭和44年、一部略)

 この人の資料としては自叙伝にあたる“巽経歴譚”(1906)と、これを参考にした“明治の津軽びと 飯田巽と旗郎(一)”(東奥義塾研究紀要 第8集、川村欽吾、1975)がある。前者は飯田の直筆原稿をそのまま印刷した変わった本で、ぺらぺらの紙に薄い青のインクで印刷されていて、ページをめくるのが怖い。国立国会図書館にもない貴重図書である。端正できちんとした字にその性格をみることができる。その中から一部、抜萃する。

 飯田巽は、天保十三年八月に弘前藩江戸藩邸で生まれる。安政二年(1855)十月二日に発生したM7の大地震(安政江戸地震)では、住まいが一瞬に崩壊して、母、叔父、兄弟二人の計四人の親類縁者が家の下敷きとなり亡くなった(潰死)。これは子供時代の最大の事件で「巽経歴譚」でも、その描写はもっとも異彩を放つ。もともと飯田家は、初代を惣助といい、信州の飯田出身で、享保十六年(五代藩主、信寿)に足軽として定府に仕えた。才能があり、後には奥附取次役(中士待遇)となった。二代、甚次郎貞剛は馬廻番頭格奥附取次役、三代、謙蔵貞之は勘定奉行、長柄奉行格に出世(上士)し、四代、勇馬貞幹は長柄奉行格、錠口役となっている。五代が飯田巽であり、正式には飯田巽貞恒または貞徳で、幼名は虎之丞であったが、その後に巽(たつみ)とし、さらに読みを巽(ゆずる)とした。多くの本では“ゆずる”とは読まれていないが、本人がそう言うのだから、これが正しい。母は弘前藩医、山上俊泰の長女、チヨである。巽が二十二歳の時に川村熊吉(寛裕)の妹のマツと結婚した。

 幕末に江戸藩邸から国許に移り住むが、在府が長く、あまり親類もいないため、弘前、白銀町医学校後の江戸長屋(今の弘前図書館)に住んだ。八畳、六畳、長四畳の三室に下男、下女を加えての生活であった。財務の能力が高く、明治五年には新政府の役人となって上京するが、家族は明治十五年まで弘前土手町松野幹方に暮らしていた。そのため本籍は青森県中津軽郡弘前土手町61番地 松野幹同居となっている(松野家との関係は不明)。

 飯田巽は津軽の人には珍しく、財務、経営の才に恵まれ、大蔵省、日本銀行で大きな仕事をし、その後も実業界で活躍した。若い頃から優秀であたったのか、幕末、藩の使命で多くの交渉を行っている。いわゆる近代学校を出ていない人物だが、こうした人物が明治政府には多くいて、かえって変な理屈もなく、物事の本質から仕事を理解し、実施した。東京大学出が大蔵省、日銀の中心になったのは明治中頃で、その浸透は速い。

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