2019年1月22日火曜日

ヒキコモリ 山田ルイ53世


 以前から気になっていた本、「ヒキコモリ」(山田ルイ53世、角川文庫)を読んだ。面白く一気に読めた。著者とは、六甲学院、サッカー部という共通の繋がりがあるため、妙に親近感があり、本で取り上げられた場面、ことに六甲学院の場面は具体的に辿れる。よく知られた山田さんの逸話だが、学校に行く途中で、急に便意をもよおし、我慢できなくなり、通学途中でしてしまう。そのくだりは通学途中の道のどのあたりのところで便意をもよおし、運動グランドのどの便所に行ったかもわかるため、妙に生々しく、まるで映画の映像のように目に浮かぶ。その後、それをきっかけに6年間に及ぶ引きこもりを送ることになる。

 この本では山田さんの生まれたところは記載していないが、HPで調べると兵庫県の三木市ということである。三木市と言えば神戸市の隣町なので、ベッドタウンと言えそうだが、感覚としては、どちらかとういうと姫路に近く、ギリギリ明石が神戸圏であっても、三木市は加古川市や高砂市に近く、また三田市の匂いもある。はっきり行って六甲学院の通学範囲は超えている。私の学年で言えば、西は大阪、東は須磨くらいが限度で、多くは神戸から西宮にかけての生徒が大半であった。

 当時とは時刻表は違うと思うが、ちなみに乗り換え案内で三木から六甲学院への道筋を調べると、三木6時発、神戸電鉄栗生線新開地行き、新開地到着75分、神戸高速線梅田行き713分発、阪急六甲駅到着729分となる。ここから学校までは長い坂となり15分はかかるため、学校到着は745分頃となる。彼は他の生徒より早く学校に行っていたようなので、この時間くらいであろう。本によれば駅まで自宅から20分かかるようなので、上記のような通学でも家を5時半には出ないといけず、通学時間に2時間15分かかることになる。往復で4時間半、流石に私の同級生でもこれほど通学時間がかかった生徒はいない。

 山田さんは六甲学院の51期生とのことで、私が32期生なので19年の差がある。51期と言えば、サッカー部も栄光の時代は去り、兵庫県でも弱いチームではなかったものの、全国大会や近畿大会には出ることはない。彼は小学校の頃からサッカーをしていたというが、それでも中学二年生でレギュラーになるのは才能があったのだろう。高校は受験のために三年生の5月頃には引退していたので、テレビでやっている正月の高校選手権には高校一年生と二年生のチームで出るが、逆に中高一貫だったので高校受験がなく、中学は3年間、目一杯試合に出られた。さらにサッカーは人気があったので一学年20名以上は部員がいて、中学だけでも50名はいたため、2年生でレギュラーであったのはすごい。成績も学年で十番以内だったとようで、このままひきこまないで、高校卒業まで行けば、京都大学、あるいはどこかの国立大学の医学部に入っていただろう。あれだけ口が上手ければ、医者になっても繁盛したであろう。両親も含めて今とは全く違った人生であったのは間違いない。

 山田さんは、記者から「引きこもりの6年間があったから、いまの山田さんがあるんですね」という質問が一番嫌いで、その答えとして「いやあの6年間は完全に無駄ですね」と答えている。といって特に他人の引きこもり生活を否定している訳でもない。ただの便の失敗というある意味、些細なことが人生を完全に変えることもあるし、山田さんの例で言えば、成人式のニュースがひきこもり人生をストップした。偶然による。私の場合は、高校一年生の頃、大学に行かないとダダをこねる時期があり、その時、兄の家庭教師をしていた先生から一人旅に行けと言われた。ちょうど夏休みの終わる頃で、今からですかと聞くと、そうだ学校なんか休んでしまえと言われたものの、それまで学校に行くのが義務みたいに感じていたので、抵抗感は強く、勉強が遅れる、休学の理由がないなど色々と理屈を並べたものの、すべて論理的に否定された。親に話すと何も聞かずに旅費をくれ、次の日に神戸港から沖之永良部島行き船に乗った。もちろん初めての一人旅で、大学生と一緒に遊んだり、地元の女子高校生と仲良くなったり、奄美大島では旅館の人に自殺客と勘違いされた。登校日から2日ほど遅れて帰ってきたが、先生からも同級生からも欠席の理由は聞かれなかった。何か心の重しから解放された気分になった。六甲学院はカトリックの学校で規則にやかましいところであったが、そうした規則をきっちりと守る自分に嫌気がさしたのであろう。ちょっとくらい羽目を外してもいいと思うと楽になった。山田さんの場合は、往復で4時間以上の通学をきつかったのだろう。どこか息抜きができればよかったのだが。

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