2019年10月6日日曜日

ラグビーワールドカップで盛り上がる


 ラグビーのワールドカップ。開催まで盛り上がりに欠け、心配していたが、いざ始まると日本中が熱狂している。改めてラグビーの面白さを知った人も多いだろう。体と体のぶつかり合い、息つぐ間もない攻撃、大男に果敢にタックルする勇気、試合後のお互いの讃え合い。もともとラグビーとサッカーは兄弟であるが、その違いは大きい。

 私の伯父さんは、長崎の平和祈念像のモデルであった長谷川茂雄であることはこのブログで何度か取り上げた。東京高等師範学校卒業後、徳島県の脇町中学に赴任し、そこでラグビーを始めたのが四国で最初であった。さらに淀川工業高校、大阪府立大学の教授などをして、私が子供の頃は大阪府ラグビー協会の副会長であった。テレビのラグビー放送があれば、解説者として出ていたこともあったが、あまり喋りは得意ではなかった。伯父さんは変わっていて、よくご飯に砂糖をまぶして食べていたり、その茶碗を持ったまま寝ていたりした。今でいうナルコレプシーの傾向があった。私が小学校の低学年の頃、大学をそろそろ停年と言っていたので62,3歳くらいだったのだろう。髪の毛は黒々して、体も大きく、足は丸太くらい太かった。小さな家だったが、玄関から入った居間には全日本のユニフォーム、桜のジャージが各種のトロフィーとともに飾っていた。またミニカーの収集をしていたので、それも飾り棚に並んでいた。奥の間にはいつもコタツがあり、猫がいた。伯父さんが書いた油絵の肖像画、多分、伯父さんのお父さんの絵が飾れられていた。叔母さんに聞くと、この狭い家に、息子のターちゃんの同志社、近鉄の仲間である坂田好弘や青森出身の小笠原博もよく遊びに来ていたようだ。伯父さんは、年齢がいっても大阪の惑惑クラブでラグビーを続け、カナダ遠征などをし、三角形の奇妙なカバンをお土産に買ってきてくれた。

 ターちゃんは、同志社や近鉄でもポジションはセンターバックで、ペナルティーキックを担当していた。昔は今のようなサッカー式ではなく、ボールに対してまっすぐ後ろに移動し、足のつま先、トーキックでゴールを狙った。ターちゃんはキックの精度は高く、どこか忘れたが海外の大学選抜の試合でも失敗なく、何度もゴールを決めていた。うちに来た時には、ソビエト陸軍のミサイル戦車のプラモデルをお土産でくれて本当に嬉しかった。

 昔のラグビーは、どんな天候でも試合したし、けが人が出ても交代が許されなかった。そのために脳震盪で倒れると、マネージャが水の入ったヤカンを持っていき、倒れていた選手に水をかけるとスーッと立ち上がり、魔法のヤカンと呼ばれた。それでも試合中のほとんど記憶がない選手もいたほどで、今考えると危険であった。またウエールズやニュージーランドなどのナショナルチームは全てアマチュア選手であり、選手の何人かは医者であったため、倒れた選手がいれば、医者の選手がまず見にいき、様子をチェックした。日本の高校生は、現在でも試合中のヘッドキャップが義務付けされているが、これを発明したのが長谷川の伯父さんだ。大阪にあったラグビーメーカーのウシトラと共同してヘッドキャプを作った。これだけでもかなり脳震盪の予防には効果があると思う。

 昔、見た試合では、日本対ウエールズ戦が記憶に残っている。1983年でカーディフ・アームズパークの美しい芝生に驚いた。今でこそラグビーの試合といえば、芝生のグランドで行われているが、昔、花園ラグビー場はほとんど土のグランドで、カディーフのような綺麗な芝生のラグビー専門競技場はなかった。昔のラグビーではゴールキックの度に芝生を削ったりしたため、ラグビーの試合による芝の痛みがサッカーに比べて大きく、本来年間でもあまり試合ができない。秩父や花園も一応、芝のグランドであったが、あまりに試合数が多く、ほぼ土のグランドになっていた。

 今回のラグビーワールドカップではどの会場の美しく、芝も見事である。世界的にも優れた競技場であり、日本が登場しない試合でも多くの観衆を集め、これを見ただけで大成功であると確信できる。これを言っちゃいけないと思うが、サッカーの2002年、日韓ワールドカップも、当初の計画通りに日本の単独開催であれば、もっと歴史に残る大会であっただろうと悔やまれる。まだ大会半ばであるが、ラグビーの醍醐味を日本人に知らせるいい機会となったのは間違いない。高校ではラグビー部員が足りないところが多くなっているが、こうした大会をきっかけに是非入部してほしい。サッカーと違い、高校から始めても遅いということはない。日本代表の中にも高校から始めた選手がいるが、他のスポーツではこういう事はない。

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