この漫画については以前から知っていたが、昭和天皇については、いろんな書物である程度知っているので、これ以上のことは書かれていないと思っていた。ただ弘前出身の外交官、珍田捨巳のことがどう書かれているか知りたかったので、購入して読んでみた。
まず最初の感想は、かなり細かい点までよく調べていて、ほぼ史実に忠実な内容になっており、下手な昭和天皇の評伝を読むよりはよほど面白かった。政治家や人物についてうまく描かれている。第4巻は、皇太子時代に欧州訪問のことが書かれているが、ここで供奉長として珍田は頻繁に登場する。少しやかまししいくらに昭和天皇の行動を監視する。この供奉長というはよほど大変な役目で、万が一、皇太子に何かあれば、切腹するくらいでは済まない重責であった。牧野伸顕によれば人選はそれほど揉めることなく、欧米生活が長く、語学に堪能な珍田に決まった。
この半年に及ぶ旅行中、珍田と皇太子は常に行動を共にし、通訳としての役目も兼任したようだ。たとえば、ロンドンに到着し、バッキンガム宮殿に入るが馬車には英国王、ジョージ5世と珍田と皇太子が乗り(あと一人はエドワード皇太子?)、皇太子はフランス語は少しできたが、英語は全て珍田がおそばにいて通訳していたと思う。当時の映画が残っているが、ヨーロッパ訪問中、珍田は常に皇太子のすぐ横にいる。そうしたことを考えると、あの有名は場面、バッキンガム宮殿に滞在中にジョージ国王自らがお忍びで皇太子の部屋に来て、国王の勤めについて話した場面、漫画では通訳は吉田茂となっている。当時、駐英大使館の一等書記官であった吉田茂が、バッキンガム宮殿に宿泊していたか。もちろん皇太子、閉院宮載仁親王、珍田捨巳ら随員の何人かは宮殿に宿泊したと思われるが、吉田は特に宮殿に泊まる必要はなく、この場面で吉田が通訳するのは不自然である。さらに吉田の経歴を見ても、わざわざ大使館から通訳としてバッキンガム宮殿に呼び出されるほど英語力はなく、イギリス国王との接点もない。多少は英語ができたもののわざわざ皇太子の通訳をするほどのものではない。
この場面、皇太子とジョージ5世の通訳をしたのは、この欧州訪問の通訳をしていた珍田の可能性が高い。珍田は、明治10年からアメリカのデポー大学に留学、卒業しており、大学では弁論部に入って優勝するほど流暢な英語を話す。さらにイギリスでは書記官、アメリカでは在サンフランシスコ日本領事、さらに日露戦争中は外務次官として活躍した。主として欧米外交のプロであり、皇太子の欧州訪問前にはパリ講和会議には駐英大使として全権委員の一員であった。ジョージ5世とも面識はあったはずである。
こうした理由から、ジョージ5世がお忍びで訪問する際には、まず供奉長の珍田に声をかけ、珍田と一緒に皇太子の部屋に行ったと推測した方が、吉田茂よりは自然である。珍田は皇太子の帰国後、そのまま宮中に入り、東宮大夫、さらに天皇即位後は侍従長となった。よほど昭和天皇は珍田の人柄に惚れたのであろう。珍田は天皇の即位の大礼を無事に務めた後、脳出血で亡くなった。
戦前の昭和天皇と弘前の関係は、この珍田だけではなく、終戦時の侍従長の藤田尚徳の両親は、いずれも弘前出身で、父、潜は弘前藩士で、珍田とも藩校、稽古館で英語を学んだ同級生で、のちに東京、攻玉社の校長となった。珍田の次の侍従長の鈴木貫太郎、百武三郎はともに攻玉社で藤田潜の教えを受けたに違いない。また最後の津軽藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野伸顕の推薦で、皇太子時代の昭和天皇の女官となり、理喜子の妹、寛子は徳川義恕の長男、義寛は戦後、侍従長となった。また姪の津軽華子さんは常陸宮殿下の妃となった。ついこの前まで宮内庁の女官の推薦枠が弘前の高校にあり、性格の良い子供が宮内庁に入ったのはこうした関係もある。
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