先日、大阪に行った折、以前から来たかった小磯良平記念美術館を訪れた。アクセスが悪いわけではないが、どうも阪神魚崎駅で降りて六甲ライナーで行くというのは抵抗があり、なかなかいけなかった。
小磯良平は、神戸の人に最も愛された画家で、多くの作品はこの小磯良平記念美術館と兵庫県立美術館に所蔵されている。この美術館の目玉は「着物の女」で、近くで見るとそれほど細かい描写ではないが、着物、とりわけ女の人の腰回りのラインが色っぽい。柔らかである。また兵庫県立美術館にある西洋白人を描いた「肖像」の白いシルクのドレスの表現が凄まじく、質感まで表現されている。いずれも戦前の作品で、優れたデッサンを元に生き生きとした女性を描いている。この2点が小磯の作品では一番好きである。
以前、東京、世田谷美術館に大規模な小磯良平展を見に行ったことがある。初期から晩期までの代表的な作品を紹介し、小磯の生涯を俯瞰する展覧会であった。その時に一番感じたのは、なぜ、若い時の路線をずっとしなかったか。戦後、とりわけ昭和30年代は、その頃の美術界の主流の抽象絵画の影響を受けて、そうした作品ばかり描いていた。作品としてはあまりよろしくなく、また多くのファンも眉を潜めたと思う。その後、昭和45年頃からようやく元の具象作品に戻る。亡くなったのが昭和63年なので、昭和30年代からの15年間の抽象絵画の時代が惜しい。ピカソは生涯に何度も画風を変え、いずれも優れた評価を受けているが、これは彼だけできることであり、多くの画家は一つの画風を深化させていく。
私が最近、気に入っているのは、千葉県生まれの田中蘭谷である。ほとんど無名の画家で、作品もそれほど個性的なものではない。明治17年に千葉県夷隅郡上瀑村に生まれた。高等小学校卒業後に、絵が好きで苦学しながら美術関係の学校を卒業し、その後、着物生地の下絵を描く仕事をしていた。妻が産婆をしていたことから、生活は妻の収入で賄え、本格的な絵の修行をしだしたのは40歳になってからで、日本画家、小室翠雲の門下となった。その後、日本南画院展覧会、日本帝国美術展覧会で入選したのが46歳、昭和5年であるが、昭和16年、太平洋戦争勃発後は絵を描くのが厳しい時代となった。戦後は注文も多くなったが、昭和31年に脳溢血となり、34年に亡くなった。実質的に画家として本格的に絵を描いていたのは、昭和5年から昭和16年、昭和21年から昭和31年の20年間くらいで、画家としての活動時期は決して長くないし、かなり高齢になってからである。年齢でいうと46歳ころに画家としてデビューし、途中、戦争で中断があり、70歳くらいまで活躍したといえよう。
私は、田中蘭谷の絵を4枚持っている。どれも細部にまできちんと描かれており、手抜きはない。同時代に活躍していた橋本関雪は、展覧会に出すような大型の作品はかなり細部まで描き、時間もかけたが、これは例外であり、収入の多くは通常の掛け軸サイズの絵を売った。橋本関雪は絵も上手いが、速描きで、通常の絵であれば、1、2時間で簡単に描けたと思われる。ある程度、構図や題材が決まれば一気に描けた。そのため、橋本関雪の絵は贋作も含めて大量にある。同様に弘前の有名な日本画家、野沢如洋は1日に1000枚描くという千画会を開いたりした。田中蘭谷の作品を見ると、一枚の絵を完成させるためにかなり時間がかかっているように思われる。下図を作り、構図を考え、そして丁寧に描いていく、そのため、作品であまり不出来がない。
枝にとまる一羽の小鳥を描いた作品には、「壬申秋」の記載があり、昭和7年(1932)、48歳の時の作品であるが、薄墨で描かれた細い枝の表現などは独特であり、動物の表現も見事である。この絵を基準に考えると、鶏の絵は、他の絵に比べて色の表現が鮮やかで、またたらし込みの技法などが使われ、昭和7年より前の作品、逆に「ブドウと小鳥」や「不要美人」はそれより後の作品のように思える。田中蘭谷の作品は、ネット上では山梨県立美術館に2つ、都留市博物館での「田中蘭谷展覧会」が載っているが、作品数はそれほど多くないようだ。こうした中堅画家の作品に中には優れたものがあるが、動物画家、特に小鳥の表現にこの作家は巧みであり、以前、落札しできなかった「梅唐美人図」を見ても美人画についてもいい作品がありそうで、今後もヤフオクからは目が離せない。今回、落札した「不要美人図」もいい作品で、お気に入りになりそうである。
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