2012年3月14日水曜日

須藤かく 6




須藤かく(1861年1月26日 万延元年—1963年6月4日 昭和38年)

 弘前藩士、須藤新吉郎の娘として、弘前の大浦小路で生まれた(現在の弘前市大浦町8番地)。弘前城の堀から少し入った所で、現在ある弘前文化センターに隣接するところで、今も当時と全く同じ敷地の家が並ぶ。

 父親の新吉郎は須藤熊三郎の二男として天保2年(1831)に生まれた。兄勝五郎は、弘前藩の西洋式帆船安済丸の船将として野辺地戦争、函館戦争でも活躍したが、長男惟一の戦死(野辺地戦争、小湊口で戦死、賞典永世15俵)もあってか、維新後は熱心なキリスト教徒となった。勝五郎の3歳下の弟新吉郎は、明治元年9月に甥の惟一とともに野辺地戦争に参戦した。その後函館戦争の折には、そこで土木工学の新知識を習得し、維新後は青森県の民政局庶務掛で、青森市の町づくりに参画する。明治に入り、名前を序と改名した(Tsuijiと読む)。須藤序がキリスト信徒になったかは、定かではないが、兄の影響から早くから西洋知識に高い関心を持ち、娘かくにも当時としては最高の教育を受けさせようとした。

 明治8年(4月)に出来たばかりの東奥義塾の小学科女子部に入学した。当時の住まいは青森の作造村(青森市造道)であったので、弘前の叔父の家から通ったものと思われる。ここで西洋知識の基礎を学んだ後、翌年の明治9年には、明治4年にできた日本最古のプロテスタン系の女子教育機関である横浜共立女学校(横浜共立学園)に入学した。おそらく東奥義塾の本多庸一に相談した結果、本多の師であるバラが関係している横浜共立女学校への留学が決まったのであろう。学費は教会による援助もあったようだ。女子では日本最初の医学博士となった岡見京子は同郷であり、共立女学校には明治6年に入学、明治11年に卒業なので、須藤かつも面識はあったと思われる。後の須藤かつの進路を見ると、岡見京子の影響からアメリカに留学し、医者になろうと考えたのかもしれない。岡見京子は明治18年(1885)にフィラデルフィアのペンシルベニア女子医科大学に入学し、明治22年(1889)に卒業した。

 須藤かつは、おそらく明治16年(1883)ころに共立女学校を卒業した。女学校に入学したのは、そもそも英語を勉強するためだったが、次第に強い信仰心をもつ先輩、先生の姿に感動し、在学中にキリスト教徒となった。卒業後、偕成伝道女学校に入り、教会関係の仕事を手伝っていたが、ここで生涯の恩師アデリン・ケルシー医師と出会う。ケルシー医師はニューヨークのOneida Countryで150エーカの農園をもつ熱心なキリスト教徒の名家に生まれた。1875年にニューヨークのNew York Infirmary女子医大を卒業後に最初は中国に医療宣教の目的で行き、その後1885年に日本できて、長老派の宣教医として活動した。

 須藤かくと安倍はなは、1891年にケルシー医師と一緒に渡米し、須藤かく32歳の時、1893年にオハイオ州シンシナティーのLaura Memorial College(シンシナティー女子医科大学)に入学し、優秀な成績で、1896年に卒業した。その間、学費を得るために、4年間に22の州で講演を行ってきた。同時期、「武士も娘」の著者杉本鉞子も夫と一緒にシンシナティーにいたが、須藤かなとの接点はどうもなさそうである。フィラデルフィアのEastern大学で勉強しながら日本への帰国を準備し、1898年にケルシー医師、安倍はなと一緒に横浜に来た。横浜では、すでに稲垣寿恵子、同窓の二宮ワカなどが、貧しい人々のための横浜婦人慈善会を組織して活動していたが、やがて1891年に根岸町西丈丸で横浜婦人慈善病院を開設していた。この通称根岸の赤病院に来たのが、須藤かくらの一行である。しかしながら、当時官医学はドイツ学派が主流となってきており、院長との確執から、3年ほどで医療活動を中止し、その後も貧しい人々への慈善事業に従事したが、失意のまま1902年にケルシー医師の故郷のニューヨーク州、Oneidaに帰ってきた。農場の管理のために、須藤かくの姉の嫁ぎ先である成田八十吉一家も一緒に渡米した。後に子供の一人を養子にしている。

 Oneidaでは農園経営をしながら、ケルシー医師とともに内科医師として医療と教会活動をしていたようだ。1920年から30年ころには、ケルシー医師に従い、老齢の恩師と一緒に暖かいフロリダに住むことにし、フロリダのSaint Cloudに移住した。1963年に亡くなるまで、そこで平穏な暮らしをした。現在、フロリダのSait cloudのMount Peace Cemeteryに墓がある。

 日系人最初の女医であり、おそらく弘前出身の最初の女医でもあったろう。女性にとって困難な時代をみごとに生き抜いた102年の生涯であった。

2012年3月12日月曜日

須藤かく 5


 須藤かくについての資料はもうないだろうと探すと、これがまだある。主としてGoogle検索で探しているが、これもGoogle USAで探すと検索結果が違ってくる。Google検索では”kaku sudo “の様式で検索すると、語句が全く一致したものが出てくるが、そのひとつが今回紹介するUtica NY Morning Telegram 1922—1382で、こういった地方新聞もすべてインターネット上で見ることができる。

 ただかなり圧縮してPDFファイルにしているため、文字がほとんど見えない。もう少し容量が大きくなってもいいので、解像度を高くしてほしいものだ。Nativeなアメリカ人であれば、推測である程度は、読めるであろうが、英語に苦手な私にとっては、ほとんど解読不可能であり、なさけない。

 内容は、1922年1月7日の記事で、内科医をしている須藤かくに、悪化しつつある日米関係について記者がインタビューしている。太平洋戦争はこの20年後に起こるが、1922年ころも日米関係は悪く、軍備拡張競争が激化し、日本でも盛んに「日米もし戦えば」といった書物が多く発行されたし、同様に日本人移民に対する排日運動もアメリカ各地で起こった。アメリカでは日本との戦争を想定したオレンジ計画が、日本では第一仮想敵国としてアメリカが挙げられた帝国国防計画が立案された。ただ当時は、この10年後ほど軍人勢力の台頭が大きくなく、政府首脳の中にも牧野伸顕や珍田捨己らの対米協調に同調するものが多く、何とか沈静化に務めた。青い目の人形が贈られてきたのもこの5年後である。

 1922年当時は、須藤かくはニューヨーク州のodeidaに、恩師ケルシー医師と一緒に彼女の農園で住んでおり、内科医として地域の住民にもある程度、信頼される小さな日本人女性であった。かくの証言から、渡米してからは日本には帰らなかったし、今後も歳をとったので帰らないとしているが、日本の知人とは緊密な連絡をとっていたようだ。日米関係の悪化にはかなり楽天的に見ていて、その友情は簡単には壊れないと考えているが、日本と中国との関係については強い危惧をもっている。最後にアメリカ人の若い女の人たちのエチケットについてユーモラスに批判している。

 それにしても、アメリカ人の情報公開はかなり進んでおり、コンピューターだけでかなりの数の古い新聞を見ることができる。書物、雑誌、新聞、文書のデータベース化が急速に進んでいるようで、古い国政調査表(census)も多く公開されていて、須藤かくについても、ほぼアメリカのデータで概要が掴めた。一方、日本では、昔は第三者、研究者でも古い戸籍謄本やお寺の過去帳を見ることができたが、個人情報保護法の制定後は市役所、寺でもなかなか見せてもらえないし、仮にそういった情報を使う場合は、子孫の許可が必要となる。どうも個人情報保護の考えが日米で違うようだ。

 Hana Abe(安倍ハナあるいは阿部ハナ)については、あまりによくある名前のため、把握できない。前回の新聞記事からも、渡米する前から教会関係者で援助されていた。ただ恩師のケルシー医師とodeida一緒に住んだのは須藤かなと彼女の親類だけで、安倍ハナの横浜から帰ってきてからの消息は掴めない。結婚したとすれば名前が変わり、ますます追跡が困難となる。もう少し、ねばってみよう。英文を読むのは本当に疲れる。

2012年3月11日日曜日

須藤かく 4



 もう資料はないかと思ったが、Google検索すると、さらに二つの新聞記事があったので、報告する。

Rome NY Rome Evening Citizen 1895年9月18日

二人の日本人婦人

彼女らはシンシナティで医学を学んでいる
自分で費用をかせぐ
3年間の(医学)過程を終えるには2500ドルの費用がかかる。このためにRomeに滞在した。
午前中— 彼女らはCamdenで休暇を過ごした。

 三人の人々、とりわけ、その中の二人は午前中の中央停車場では大きな注目を浴びた。中国、日本での宣教から帰ってきたCamdenのアデリン・ケイシ医師と5フィート4インチの二人の日本人婦人である。この日本人の名前は、24歳の須藤かくと22歳の安倍(阿部)はなである。この国での保護者であるケイシー婦人の故郷で6週間の休暇を過ごした。普通のアメリカ人の装いをし、奥ゆかしい若い婦人である。彼女らは、中国語や日本語で授業が行われているように、完全にこちらのやり方で、英語での授業を受けている。彼女らは朝の8時45分にRomeに到着し、11時11分の汽車でシンシナティーに帰る予定である。シンシナティーで彼女らは医学校に勉強しており、来年の4月に3年間の過程を終え、卒業する予定である。彼女らは4年前にアメリカ人に来た。彼女らはアメリカの生活やアメリカ人のことが好きである。
シンシナティーでの勉強には2500ドルの費用がかかる。講演をしたり、中国の皇帝(天皇?)についての話しをしたりして、その費用を工面している。自活する以上のたくさんのお金をもらっていると誇らしげに語った。勉強が終了したら、日本に帰り、日本人や中国人の中で、宣教医として働くことになっている。
 ケイシー婦人と日本の婦人は、学びことに喜びをもち、宣教医としての仕事にすべてに深い興味を持っている。
 この若い婦人はこの4年間で22の州で講演を行ってきた。彼女らが勉強している大学は長老会病院のLaura女子医科大学である。ケルーシ女史によれば、この日本の小さな女性はクラスでも飛び抜けており、いい成績で卒業できるだろうと語った。


 さらにSyracuse NY Daily Journal 1981年10月15日、これは須藤かくと安倍はなが日本に来た時の記事であるが、ここには二人を医学校に行かせるための財団を作るような話が載っている。画像が悪く、半分以上、解読不能であるため、全文の訳はできないが、一部を訳す。
First Presbyterian 教会で、少額の入場料をとって横浜のケルシー医師と彼女が日本から連れてきた二人の学生と助手、須藤かくと安倍はなの歓迎会を催した。彼女らが医学教育を受けられるようにするため財政的な助けをしようというものである。教会では数年に渡り、安倍はなの教育に関心があり、色々な催しもしたが、あまり関心を引かなかった。ケルシー医師が日本から持ち帰ってきた美しい着物や珍しいコレクションは、日の登る王国では部屋に飾ったり、宗教的な儀式で使われたもののようだ。これらの品は日本人がケルシー医師の治療行為に感謝してくれたもので、須藤らの教育資金のために寄贈し、売ってほしいとのことである。

 これらの二つの新聞記事からは、須藤かくと安倍はなは1891年に渡米し、1893年に女子医科大学に入学し、1896年の春に3年の過程を卒業したことになる。その後、Eastern大学で学びながら、1898年に日本の横浜に来て、根岸病院で働く。医学部の学費は、二人の保護者であるケルシー医師が日本で患者さんから貰った日本の工芸品などを売ったり、あるいは教会での講演などで工面したようである。未知の国から来た若い女性に対して、アメリカ人も積極的に支援したことが伺われる。ただ須藤かくは、1861年生まれであるが、ここでも、10歳ほど年齢を若くしている。今でこそ30 歳で医学を学ぶということは、ごく普通であり、むしろ賞賛されるものであるが、当時のアメリカでも、少し奇異な感じがもたれたことと、日本人は若く見られたことによる。

 ここでケルシー医師が寄贈した日本のコレクションは現在でも、シンシナティーにあり、その管理者(館長)が須藤かく、安倍はなのことを知りたがっているというのを前回のブログにコメントいただいき、初めて知った。こういったブログは思わぬ、繋がりを与えてくれる。

*コメントにSyracuse NY Daily Journalの正確な英文をいただきました。私の悪訳も一緒に載っています。

2012年3月8日木曜日

須藤かく 3



 前回のブログで須藤かくの父親を須藤勝五郎としたが、どうも間違いのようである。本来、資料を周到に当たってから、書くべきであるが、ブログの場合、その性質上、思いついたことをすぐに書きつける、自分のメモのようなところがあるため、こういった失敗がおこる。お許し願いたい。

 本日、休診日のため、久しぶりの弘前市立図書館に行ってきた。須藤かくのことを書いたおそらく唯一の本、「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、日本キリスト教団藤崎教会、1992)を探しにいった。IF、2Fの書棚を探すが、該当する本はなく、半ばあきらめ、図書館のコンピューターで検索したところ、郷土資料庫にあることがわかった。早速、職員に頼み、書庫から出してきてもらい、閲覧した。

 須藤かつは、須藤勝五郎の弟、新吉郎の娘であった。須藤新吉郎は、熊三郎の二男として天保2年(1831)に生まれた。兄、勝五郎とは3歳違いである。新吉郎は明治元年9月に甥の惟一(勝五郎の長男、後に戦死)とともに小湊口に出張して、野辺地戦争に参戦した。やがて函館に派遣され、ここで土木工学の新知識を習得する。維新後は、青森の作造村(青森市造道)に住み、青森県の民政局庶務掛の少属として勤務し、青森市の火災防止の都市計画に関わる。明治に入り、名を序に改名する。

 明治11年(1876)7月5日の七十一雑報の教会新報欄に
「陸奥国中へは弘前会より追々諸教所を設置して近頃は僅斗の距離ある黒石一ヶ所、青森港への二ヶ所取設けて、盛んに伝導に尽力されるよし。内一ヶ所は分営の通路なる川塚の須藤序という人の家を借り受けしとて(因にいう須藤氏の女は三年前より横浜女学校にありて、追々熱心の信者となり、已に今春バラ氏より受洗せられるよし)、何れも聴聞人百を以て数ふる程にて景次甚だよきよし。然し伝導者の少ないのはほとんど因却のよし。何れの地方も左こそあるべけれ」

 これから佐藤幸一氏は明治9年ころに須藤かくは横浜共立女学校に留学したとし、それまでは明治8年4月(1875)にできた東奥義塾の小学科女子部に行ったとしている。そして青森市からの通学は困難なので、叔父の勝五郎の家から通ったのではないかとしている。ただ1年くらい小学科に行くくらいなら、そのまま青森市から横浜に直接行き、明治8年に横浜共立女学校へ入学した可能性もある。どうして横浜女学校への留学を決めたかというと、佐藤氏は本多庸一の推薦があったとしている。本多の恩師バラは、横浜女学校の創立にも関わっており、十分にありえる。さらに明治11年ころから須藤序一家の記載が一切なくなったことから、須藤かくの卒業後に中央に一家挙げて移住したのではないかと推測している。

 さらに明治11年の弘前教会の記事より31円44銭を女学生三人の学資として教会より支出とあり、須藤かく以外の他二人の留学生が横浜に行ったのではないかと推測している。(以上「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、藤崎教会、1991)より引用)

 須藤新吉郎の名は、大浦町小路に見られる。兄勝五郎とは別家を立てたのであろうか。須藤かくは父の名をTsuiji sudoとしているが、序は“序で(ついで)”とよむこと、二男であることから、序二として(ついじ)と読ましたのかもしれない。さらに須藤かくの一家は、かくの渡米に際して、一緒にアメリカに移住したため、記載がなくなったのかもしれない。くわしいことは、以前Wiltonm Newyork州のHPに須藤一家と成田一家の記載があったが、今はなくなっていて不明である。

 また弘前教会の本多庸一は、横浜女学校に弘前から3人の留学生を送っているが、この内の一人が須藤かくで、もう一人は阿部はななのかもしれないが、阿部はなについての記載は一切ない。

2012年3月7日水曜日

須藤かく 2




須藤かくについて、シンシナティーの知人より新たな情報をいただいたので、ご紹介する。ニューヨークタイムズ 1900.6.12号の記事である。ざっと訳した。

「Missionaries’ ill-fortune
シンシナティー 6.11
 アデリン・H・ケイシー医師の友人である阿部ハナと須藤かく、両医師は日本の横浜での不運を心配している。Laura Memorial Collegeを卒業した阿部、須藤医師、この二人の女性は、伝道の仕事のために日本に行き、横浜近郊の根岸病院を運営していた。この病院は彼らにより建てられ、彼らの努力により維持されてきた。ケイシー医師は最近、友人に次のように書いている。仏教徒が力を持ってきて、彼らが根岸病院を完全にコントロールしてきている。阿部と須藤医師には残って病院運営をしてほしいようだが、仏教徒はキリスト教徒に嫉妬し、彼らのコントロール下にあるここでは、キリスト教の宣教は許されなかった。3人の医師はここでの仕事をあきらめ、近くで貧しい人々のための新しい仕事をすることにした。貧しい人々のところに行って、服や食料を分配することを始めた。彼らは宣教のため小さな保養所をもった。彼らが3年間働いた根岸病院は、ここに住み、よろこんで貧しい人々のために働く異教徒の医師を見つけることができず、その後、閉院した。」

ここでの根岸病院というは、明治25年に開院した横浜婦人慈善病院、横浜根岸病院のことで、稲垣寿恵子、二宮ワカらがかかわった。二宮ワカは横浜共立女学校の同窓で、歳も同じなので友人であったのであろう。設立は明治25年4月で、院長は広瀬佐太郎となっている。この広瀬という人物は、ドイツ式医学を修めたひとで、ケイシー女史は仏教徒とキリスト教徒の対立と捉えているが、内情はアメリカ式医療とドイツ式医学の確執に起因するようである。なおケイシー女史は、長老派教会(Presbyterian Church)に属した。

前回のブログではケイシー女史は1907年まで日本にいたとしたが、1930年の人口調査では同居人(間柄をCompanion 仲間という珍しい表現を使っている)、須藤かくの姉の嫁ぎ先、成田八十吉がアメリカに来たのが1902年となっているから、この頃に日本を去り、ケイシー女史の先祖伝来の土地、ニューヨーク州、Oneidaにやってきたようだ。成田家は子供も一緒に連れてきて、ここでは農園管理を行っていただろうし、ケイシー、須藤かくは医療活動もしていたようである。その後、いつかはわからないが、フロリダ、Saint Cloudに転住し、そこで3人とも亡くなるまでいたようである。静かな信仰の家庭である。もし須藤かつが恩師のケイシーとの同居を選ばず、日本に帰ってきたのあれば、当時これだけの教育を受けた女性は日本には少なかったことから、地方女子教育のリーダー、初期の女医として、知られた存在になったのは間違いない。

これで思い出したのが、神戸女学院などの建築で有名な近江兄弟社を設立したメレル・ヴォーリズの妻、一柳満喜子である。1884年に播磨小野藩主の娘として生まれた満喜子は、女子高等師範学校から、神戸女学院、そしてフィラデルファのプリン・マー大学に留学する。恩師であるアリス・ベーコン先生の活動に共感し、養子の手続きをされ、その運動の後継者と期待されていたが、父の危篤の知らせ(実際は元気だった)で8年間のアメリカ生活を切り上げ、帰国し、ヴォーリーズと結婚する。満喜子もそのままアメリカにいたのであれば、須藤かつと同じような人生であったろうし、「負けんとき ヴァーリズ満喜子の種まく日々」(玉岡かおる著 新潮社)のような本にもならなかった。

 須藤かつは、戦前、敵性外国人になったつらい時期もあっただろうが、信仰に包まれた102歳の平穏で、幸せな人生であったろう。

2012年3月6日火曜日

須藤かく 1



 日系では最初の女医である須藤かくについて、多少わかってきたので、少し記述したい。

 須藤かつは、弘前藩士須藤勝五郎の娘?として、1861年1月26日に弘前市若党町に生まれた。実家の2軒隣には、笹森順造の実家(笹森要蔵)がある。父親の勝五郎は代官、弘前藩が持つ西洋帆船安斉丸の船将などをする名家で、維新後は熱心なキリスト教徒として藤崎教会などで活躍する。

 須藤かつが生まれた時代は、女性にとっては狭間期であり、当時女子の高等教育機関は日本にはほとんどなかった。東北で最初の女性教育機関である函館の遺愛女学校が出来たのが、1882年(明治15年)であり、今東光の母、綾などは、第一期あるいは第二期の入学者であった。ただこの時、須藤かつはすでに21歳でいささか歳をとりすぎている。当初遺愛女学校に通ったと考えたが、後述する本人の話から、日本で最初の女子教育機関のひとつである、1875年(明治8年)にできた横浜共立女学校に、どうやら行っていたようだ。かく、14歳で辻褄が合う。進取の考えである。そこでキリスト教徒になった。

 その後、宣教医のアデリン・ケイシー女史の勧めで、友人の阿部ハナと一緒に、1891年に渡米し、1893,4年ころにアメリカ、オハイオ州のLaura Memorial College(シンシナティー女子医学校、シンチナティー大学医学部、シンシナティ在住の知人よりの情報)で勉強し、1896年4月に卒業して、医師となる。アデリン・ケイシー女史がPresbyterian派の信者であったので、同系列のこの大学に入った。

 1898年ごろに日本に布教のために帰るが、その直前にシカゴトレビューン紙での記事(1897.10)があるので、大雑把に訳した。当時、須藤かつは36歳で、下写真に示す新聞の肖像画にはコメントはないが、おそらく左の女性が須藤かく、右の若い女性が阿部ハナであろう。


エバントンの日本女性

ミス須藤かくとミス阿部ハナが、ファーストプレスバイタリアン教会で話す。

二人の日本女性、ミス須藤かくとミス阿部はなが、日本の古風な衣装を着て、エバントンのファーストプレスバイタリアン教会の演壇から大勢の聴衆の前で昨夜話した。
 彼女らは現在、布教のために日本での外科と医術をこれから行う途上で、この国のEastern大学で学びながら、最後準備をしているところであるが、キリスト教信仰への転向についてはこれまで伝えたことはない。
 彼女らは小さく、座ると脚が床につかなかった。ひとりの衣装は緑、もう一人は紫の衣装であった。祈りの間、彼女らは巨大な日本の扇を顔の前に置いていた。
 ミス阿部ハナが最初に話した。彼女の声は鮮明で、彼女のマナーはシンプルであった。彼女は話している間、手は体の前にじっとしたままであった。
“日本を去ってからすでに6年間がたちました。”と話し出した。“そこではミッションスクールに行っていました。私の両親はキリスト信徒でもなく、学校に行くまで唯一の神については何も知りませんでした。日本には多くの神がいて、それぞれの寺がありました。最初に神について聞いたときは、私にとっては不思議なもので、馴染みのないものでした。しかし次第に聖書に興味を持つようになってきました。聖書の教えから特別な痛みをいただきました。当時、私が入ったミッションスクールには70名の生徒がいましたが、年輩の生徒の幾人かは信徒でした。彼女らは教えを広めるためにいつも外で活動していました。彼女らは実に真摯でした。平穏と同情、そういった類いのことを与えていました。私も若かったので、彼女らの美しい性格に強く感動いたしました。”
“ここで、私は多くの幸福を持つことができました。主は多くを与え、祝福してくださります。我々は真摯に主に仕えれば、多くを与えてくれます。”
ミス阿部ハナが演壇をおり、席にもどった。そしてボイド医師から彼女の仲間であるミス須藤かくが紹介された。
“両親はミッションスクールに行けば、英語を学ぶことができると言いました”彼女は続けて、“私はうれしくて、キリスト教のことも何も考えないでそこに行きました。ある日曜、先生があなたの神は本当の神ではないと私に話してくれました。彼女はすべての生徒は一度教会にいきなさいと言うので、ある日、私も教会に行きました。みんなが祈りのため、ひざまずく中、ただ一人椅子に座ったままでした。信徒の女子の中でひとり違和感を感じました。彼女らはやさしく、誰にも愛情深かった。私はどうして彼女らはあんなに愛情深いのですかと尋ねました。それは主を愛しているからだと私に話してくれました。もしこの宗教が人々の心を変えるのであれば、これこそ本当の神だと考えました。そして私もキリスト教徒になったのです”
アメリカ人ミスアデリン ケイシー(Adeline Keisey)は、宣教のため日本で活動し、この二人の日本人女性をつれてきた。



 ここでのアデリン・ケイシー(1844- )は、須藤かくの師匠にあたるひとで、1875年にニューヨークのNew York Infirmary女子医大を卒業後に最初は中国に医療宣教の目的で行き、その後1885年に日本で活動した。22年間、日本で活動した後に、1907年に帰国して、ニューヨークのOneida Countryで150エーカの農園で余生を過ごした。その際に、農場の管理および自分の世話のために一緒に暮らしたのが、須藤かくとその親類の成田八十吉である。1930年の人口調査では、ケイシー86歳、独身、須藤かく、58歳、独身、成田八十吉、60歳、既婚となっている。須藤かくがアメリカ人に来たのが1891年、成田八十吉は1914年となっている。職業は、かくは無職、八十吉は修復師(repair)となっている。この人口調査では須藤かくの生年月日は1872年になるが、墓標による生年月日では1861.1.26-1963.6.4となっており、102歳でフロリダのSaint Cloudで亡くなった。米国在住の知人によれば、こういった類いの調査は、聞き取り調査でいいかげんなもので、日本人は若く見られたようだ。つまり1930年では須藤かくの実際の年齢は69歳となり、かく自身も引退していたのであろう。

*主として、前回初回したFold3よりの引用である。また「須藤勝五郎の生涯 弘前藩士の信仰の軌跡 安済丸船将」 佐藤幸一 著は入手できなかったため、すべて推測で記述した。弘前図書館にあれば、もっと確実な情報が入手できるので、訂正したい。

2012年3月4日日曜日

山田兄弟44 (山田四郎)




 思わぬ発見があった。以前から山田良政、純三郎の他の兄弟、二男清彦と四男四郎のことを探していたが、全く手がかりが得られなかった。二人とも、青森県総覧という昭和3年に発刊された本から、まず四郎が明治33、4年ころに、その1、2年後に清彦が渡米したことがわかる。大正8年(1919)10月に弘前の貞昌寺で行われた山田良政碑除幕式に、清彦が参加していることから、清彦は一時日本に帰国していたようだ。さらに二人とも、アメリカに行って、そちらで亡くなったという情報しかない。

 ひまな時に“shiro yamada”、”kiyohiko yamada”でインターネット検索しているものの、これといって該当する人物はいない。アメリカのサイトでFold3という歴史上の人物の新聞記事などあらゆる書類を集め、それを検索できるものがある。有料のため、使用はためらっていたが、一週間無料のサービスがあったので、昨日初めて利用した。

 “shiro yamada”で検索すると、9つの画像がヒットする。一つずつ開けていくと、1942年4月の登録カードに何と出身が弘前の人物が見つかった。おそらく太平洋戦争勃発に伴う外国人登録の一環として作成されたものかもしれない。生年月日は1881年12月13日生まれで、これは完全に山田四郎に一致する。山田良政が1868年生まれ、純三郎は1876年生まれであるから、末弟の四郎とは良政が13歳差、純三郎とは5歳差である。住所はコネチカット州ニューヘブン、ヨーク通り162番地で、イエール大学構内である。勤務先はチャピタル通り1084番地の大学レストランで、知人の名前としてYale Hope MissionのJohnstonさんが挙げられている。年齢は60歳とある。Yale Hope Missionとは貧困者へのシェルターのような施設を運営していている組織である。

 もうひとつの書類は1930年のCensusという人口調査の書類で、そこにはハナオカ ワカ(コック)とハナオカ タキ(メイド)と一緒に、山田四郎の名がある。年齢は37歳、独身、移民した年は1900年、Private Familyに執事として勤務しているとある。上の登録書とは一部矛盾する、1930年であれば、年齢は48歳であるが、37歳と偽っている。さらに勤務先の人物として、弁護士のMarshal Stearnsの名がある。妻シャーロットの他、同名の息子と二人の娘がおり、ここに四郎始め3名のコックとメイドが勤務していた。住所はコネチカットのNEW CANAANという町である。

 青雲の志を持って、故郷を後にしても、必ずしも成功するとは限らない。いや僥倖を得た一部のものだけがたまたま成功するだけなのであろう。仮に名声を得られなくても、その人生もまた歴史である。山田四郎、その生涯のごく一部が今回の資料から伺うことができようが、それをもって幸、不幸を論じることはできない。せめて、その一端を開帳することで、供養としたい。士族の矜持が、ついには故国への帰還を許さなかったかもしれないし、それは兄、良政、純三郎とも通じる。山田四郎の亡くなったのは、1963年1月であった。81歳であった。

なお山田清彦の名は、弘前市立朝陽小学校同窓会名簿—創立120周年記念—に見られる。朝陽小学校、明治11年〜明治20年入学者の中に在府町山田清彦とあるが、ただ四郎の名はない。在府町であるから、学区としては朝陽小学校になるはずだが、純三郎、四郎の名は見当たらない。