2025年9月4日木曜日

医学はサイエンスに基礎を置いたアートである

 



著名な医学者、ウィリアム・オスラーは「医学はサイエンスに基礎を置いたアートである」と述べた。ここでいうアートとは芸術の意味ではなく、技術、経験といった意味である。むしろ今では「医学とはエビデンスに基づいた経験、技術である」と言った方がわかりやすいかもしれない。

 

ここでいうエビデンスとは医学、医療エビデンス、きちんとした統計的な手法を用いて、効果があったとする治療法のことで、教科書的な標準治療法と言っても良い。現在、ほとんどの疾患、病気は、各医学学会で、その治療法についてのガイドラインが出されており、基本的にはこのガイドラインに沿って治療がなされる。ただこれはあくまで、統計的に有意であった治療法というだけで、個々の患者に対して効果があるかはやってみないとわからない。統計といっても、医療系の研究は、二つの集団の差の検定あるいは、あるいは傾向があるかどうかを調べる相関の検定が多い。薬を飲んだ集団と飲まなかった、あるいはプラセボの薬を飲んだ集団に差があるか、タバコと肺がんの関係などである。

 

今後、AI技術の発展に伴い、このエビデンスについてはさらに強化されていくであろうし、診断、治療法については、かなりコンピューターでできるようになるであろう。ところがオスラーのいうところのアートについては、いくらA Iが発達しようが、これだけは経験して、自分で学び取っていく以外に方法はない。最初に言ったようにアートの意味には、技術的な側面と経験的な側面があり、数をこなし、経験を積むだけでなく、個人の資質が関係する。いくら頭がよくても不器用であれば手術はできないし、手先が器用で早くても失敗が多いのでは医学の面では致命的な欠陥となる。

 

矯正治療は、このようにアートの占める割合が高く、実際、治療費は高額であるが、その90%は技術料と考えて良い。最近、流行しているインビザラインは、コンピュータで治療開始前から終了までのプロセスをコンピューターで分析して、マウスピースを作り、歯を動かす。非常に科学的な方法で、患者にとって治療後のシュミレーションが見えることは安心である。これがサイエンス、エビデンスがあるかというと怪しいが、それでも簡単な症例ではこれで治るというサイエンスはある。ところがこの治療を行う先生の多くは、矯正歯科の素人で、アートの部分の能力はかなり低く、現状の日本矯正歯科学会の認定医、臨床医の症例審査に通るだけの力量を持つ歯科医はほとんどいない。また多くの友人に聞いても、インビザライン単独で治せる症例は少なく、特に抜歯症例ではほとんど、マルチブラケット装置が必要という。

 

個人的に、このアートの分野で最も難しい判断は治療を勧めない場合である。実例で言うと、精神疾患を有する患者の矯正治療では、多くの場合は問題ないが、中には治療中断や不穏な結果に終わることがあり、治療をすべきでなかったと悔やまれる症例がある。また子供の場合でも、親が熱心であっての子供がやる気がない場合、矯正治療で歯並びがきれいになってもう蝕だらけという状況になることもある。こうした症例を初診段階で、治療を拒否すれば患者からはクレームがつくが、断固として断る勇気もアートの領域である。また下顎の前歯部だけの叢生の治療については、経営的には美味しいが、後戻りのことを考えると断る症例であるし、反対咬合の二期治療についてももし手術の可能性があれば、成長が終了するまで、あるいは本人の意思決定ができるまで二期治療をすべきでない。

 

レスキューファンタジー、他の医師が治療できなくても自分なら治せると言う幻想は、若い先生が陥りやすい症状である。特に歯科医の場合は、大学病院、大規模病院に勤務する経験が少ないので、自分のアート、あるいはサイエンスの足りない部分を指摘されることがなく、独善的になりやすい。自分ではすごいと思っても、他の先生からみるととんでもない治療をしていることがままある。サイエンスの部分を高めるのは、本を読んだり、学会に出席したり、講習会に受講することで学べるが、アートの部分は他者からの評価を必要とする。優れた指導者、専門家から、自分の治療のアートの部分を評価し、正してもらう。こうした工程がアートの部分を高める。矯正歯科医の場合は、認定医、臨床医、あるいは専門医の資格を得る、更新時に自分が治療した症例を試験官によって評価される。また転医の際してもこれまでの経過も含む、すべの症例を送るため、ここでも転医先の先生から評価される。また同門会のメーリングリストで治療について相談することもある。

 

近年、歯学部学生は卒業して、大規模のチェーン店に勤務することが多くなったが、そこがサイエンスとアートの両方を学べるところか、どうかよく考えてほしい。どの分野でも、優れた医師、歯科医は世界の最高水準の治療法、治療結果を知っている。矯正歯科分野でも、専門医であれば、世界各国から転医患者が紹介されるし、こちらから海外の専門医に紹介することは普通にある。またヨーロッパやアメリカの矯正歯科専門医試験に合格している日本人の先生も多いし、海外の学会に行き、症例報告を見れば、だいたい世界トップの臨床水準は理解できる。日本矯正歯科学会の臨床医(臨床指導医)の試験は、世界でも最もむずかしい資格試験の一つであるのは間違いない。大袈裟に言えば、日本の矯正歯科医は、常に世界のトップレベルの臨床水準で治療を行っているし、実際に日本人の矯正歯科医のレベルは世界的にも高い。一方、一般歯科医が世界最高水準のレベルを知っているか、あるいは治療できるのか、ここが問題となる。医師の60%以上は専門医の資格を持っており、彼らは世界的な水準を知っているが、歯科では専門医を持っている先生は5%しかおらず、一般歯科の先生が世界的なレベルでの治療をしているだろうか。私のような田舎の矯正歯科専門医でも、これまでアメリカ、ベトナム、韓国、中国などから十数名の転医患者があったし、こちらからもアメリカ、ドイツ、中国に治療の継続を依頼したことがある。保険治療という枠組みがあるにしろ、日本の若い歯科医はサイエンス、アートともに世界最高レベルの歯科治療を目標にしてほしい。


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