2025年9月12日金曜日

日本人の英語

 



私が卒業した六甲学院は、イエズス会系の学校で、在学当時は多くの外国人神父がいた。校長も含めて職員の10人ほどが外国人で、その母国もスペイン、ドイツ、アメリカと様々であった。英語については、スペイン生まれ、ミシガン大学卒業のディアス先生が6年間、担当した。基本的には国語、数学などの主要科目の先生は中高6年間、継続して担当する。さらに英語については、日本人教師による授業もあり、6年間でいえば、ディアス先生と日本人英語教師の2名が担当した。さらに1年ほど、アメリカ、ボストン生まれのハンコック先生からも英語を習った。

 

私はひどく発音が悪く、もう1人、後に埼玉大学の副学長になったN君と双璧であった。彼は、消しゴム、eraserをエラセルと堂々と発音し、それ以降、エラセルがあだ名となった。私も同様で、ある日、“go to here”をゴー ツー ヘルと発音し、カソリックの神父にお前は私に地獄へ行けというのかと激怒された経験を持つ。そんな私でも、今はひどいジャパニーズ英語であるが、何とか英語で会話できるし、エラセルくんも海外の研究者と普通に会話している。六甲学院の英語は、バスケット部の顧問であったフリン先生が作った、プログレス イン イングリシュという独特の教科書を使い、より実践的な内容になっていた。教科書に沿って、カセットテープも作られ、それを授業の度に渡され、聞くように言われた。もちろん、そんなカセットテープはほとんど聞かず、すぐにゴミ箱に。ただ身近に外国人がいたせいか、卒業後も外国人と話すのはそれほど苦ではなかった。

 

英語教育というと、話す、聞く、読む、書くの四つからなる。私の場合、受験勉強のために読む、書くはそこそこできたが、話す、聞くがあまりできなかった。その後、外国人留学生に矯正臨床を英語で教えたり、20年前からは週に1回、アメリカ人教師から英語を習っているので、少しくらいは話す、聞くはできるようになった。全く予習、復習もせず、歯科医の友人四人とアメリカ人教師1名がわいわいワインを飲みながら話しているだけである。発音はめちゃくちゃ、語彙も乏しいが、内容な濃く、トランプ政権下の移民政策などを議論している。

 

弘前の東奥義塾は、明治時代、英語教育で全国的に有名であった。特にその初期の学生は、ほとんど授業をアメリカ人から英語で習い、東京に出て物理を勉強しようにも、英語でしか習っていないので、しばらくわからなかったという。そのためアメリカに留学した生徒もすぐにアメリカの大学生活に溶け込み、弁論部に入り、優勝したり、いずれも優秀な成績で卒業している。一方、もう少し後になるが、弘前中学校から早稲田に進学し、その後、アメリカに留学した笹森順造の場合、当初、ほとんだ何を言っているか理解できず、小学校の授業を受けていた。今の日本人は中高校と英語を6年間も習ってもアメリカに留学するとわからない、これと同じ状況である。つまり読む、書く、を学んでいても、聞く、話すには、外国人教師による直接的な指導、それもかなり濃い指導が必要と言える。

 

横浜の共立女学校の場合、明治5年には早くも寄宿制をとり、生活の全てを英語づけにした。寄宿生同士の会話は日本語であるが、朝から晩までアメリカ人宣教師と同居して英語を学んだ。ここからは岡見京、菱川やす、須藤かく、阿部はななどがアメリカの女子医科大学に留学し、優秀な成績で卒業している。医学部はネーティブのアメリカ人女性でも卒業は難しい学部であるが、日本人留学生は特に読む、書く能力が優れており、聞く能力は外国人教師と生活する間に学んだのだろう。さすがに話す能力は幼児の時に外国語に触れていないとネーティブ並みになるのは難しいが、それでも読む、書く、聞く、の能力があれば十分に留学ができる。共立女学校を見ても、寄宿生であれば、留学しても全く問題ないレベルの英語能力はあると思うが、ただ通学生ではどうかという疑問がある。もちろん授業の多くが英語でされていれば、自然と英語は上達するであろうが。

 

 


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