2018年5月10日木曜日

津軽での商売


 かれこれ20年前だが、家を新築するときは、“モダンリビング”という建築、インテリア雑誌を1年以上購入して、最新の家具を研究した。たまに東京や大阪に行くと、CASA 、アクタスなど有名な家具屋や天童木工のショールームなど訪れ、椅子の実際の座り心地などを調べた。かなり家具通になり、いまだに知識は豊富な方である。そのため、地元に昔からある家具屋や格安店では満足できず、主として北欧の家具は東京で買おうと思っていた。ところが歯科医院からわずか20mのところにおしゃれな家具屋ができたので、そちらで色々と相談し、最終的にはほとんどの家具をここで購入した。店主のインテリアに対する知識は半端でなく、こちらも勉強になった。その後、この店は土手町に移り、ここでは家具だけでなく、ブナコや陶磁器も扱った。青山や六本木と変わらない高いレベルのインテリアショップで、宮崎椅子製作所の椅子を買った。こういっては失礼だが、田舎にはもったいないレベルの店であった。同様なことは、先日、百石町記念館で、刺し子、古布展示会があり、戦前の刺し子、古布を今風の洋服にパッチワークのようにリメイクしたものを販売していた。値段も高いが、かなりはおしゃれなもので、ニューヨークのセレクトショップに展示されていても全く違和感はないし、多分、高価でも売れるであろう。

 こうした東京でも通用するような店や物があり、それを喜ぶ客もいるが、如何せん客が少なすぎて、商売にならない。開業する側からすれば、東京に負けない店を出したいという夢を持つし、またそれに賛同する人もいるのだろうが、実際、開業してみると、最初は興味のある客が多く来ても、次第に減っていく。例えば、ほとんど食材を自分で作っている、グルメの間では有名なイタリア料理店が弘前市にはあり、東京の味には決して負けないが、地元民には高すぎるので、あまり人気がない。それでも噂を聞きつけた県外からの客が多く、何とかもっている。おそらく東京に開業すれば、予約の取れない店のひとつになったと思うが、地方で開業するのは本当に大変である。

 ハイセンス、モダンな店は東京のような大都市ではそれでもかなりの客数となるため商売としてやっていけるが、地方都市では興味を持つ客の絶対数が少なく、無理となる。”1970年以前のフェラーリー専門の中古店“を弘前に開業しても3か月で潰れるが、東京では商売として成り立つ。それ故、地方で新しいことをする場合は、まずパイを少しずつ増やし、さらにリピーター率を高めて、それでいて最小限の利益のみを確保する。フェラーリの例でいえば、毎年1台ずつ、5年で年間3台くらいさばけるまでにして、収益が200万円でよしとする商売であれば、何とかやれるのだろう。

 地方でも商売の難しいのは、都会ではやっているからと取り入れても、もともとのパイが少なく、さらに競合店が増えると一軒当りのパイがさらに減り、経営が困難となる。鍛冶町にあるスナックなどの飲み屋は低落、もちろん個人経営の本屋、古書店、薬屋はほとんど姿を消している。それじゃ、大型店はどうかというと、ここも客は少ない。ゲームセンターも人はいないし、靴屋も厳しい。9割の店が閑散として、残り1割もそこそこという状況で、飲食店でも行列ができる店はほとんどない。いつ行ってもいっぱいというところは本当に少なく、あったとしても一時的である。逆に、うちもそうだが、あそこは何をやっているのか、お客さんが来ているのをみたことがないという店がある。案外、こうした店の方が長続きしているようで、つまり最小限の経費で、純益が出て、リピーター客がそこそこに多い商売が地方では向いている。

2018年5月9日水曜日

戦前、戦後 もはや死語

 日曜日の朝、テレビを見ていると、コメンテーターが“戦争を体験した私にすれば、今の安倍政権の”うんぬんとしゃべっていた。確か大学教授だったが、どう考えてもそんなに歳とっていない。調べると、昭和2011月生まれの戦後世代である。戦争を体験したとよく言えたものである。笑止である。

 戦後、七十年、戦争体験者はほとんど亡くなった。最近は生存者が少なくなったためか、終戦特集にでている人も、戦争には参加したとは言え、当時、十八、二十歳の若輩で、なおかつ末期にかろうじて参加した者ばかりである。こういっては何だが、今まで年配のベテラン兵が生きていたので、おとなしくしていたのが、急にしゃべりだす。こうした感じである。

 おやじは大正八年生まれで、学徒で戦争に行ったのが昭和十七年、帰国したのが昭和二十二年であった。二十三歳から二十八歳までが戦争経験となる。このあたりの世代が少なくとも、戦争を経験したと人にいえる平均かと思われる。旧制中学の同級生名簿をみると、ほぼ半分くらいが戦死しており、大正生まれの人々が先の戦争世代と呼んでよい。小学校の友人の家に行くと、勲章をみせてもらったことがある。お父さんは少将であった。まわりの大人たち、親の世代は、ほぼ戦争経験者であり、さらに祖父の代になると、日露戦争従軍者もいた。

 こうした世代の人々は、戦争については家族にはしゃべらなかったが、時折、酒を飲むと家族以外の他人に戦争中のことを話すことがある。私は昔から年寄りと話すことが好きで、興味津々に質問するためか、こんな話は家族にもしたことはないと前置きされた上でおもむろに戦争中の話をする。ずいぶん多くの方から戦争中のことを聞いたが、戦争時代を懐かしむ人が意外に多い。戦前の日本人にとって、故郷の外に出ることは滅多になく、まして満州や南方諸島のような外地に出ることは、戦争がなければ経験できないことである。さらに戦争という究極の体験は深く記憶に止まり、わずか数年の経験であるが鮮明な記憶として残っているのだろう。ニューギニア、インパール、ガダルカナルなど悲惨な戦場はあったが、タイ、ラオス、台湾などに赴任していた人に聞くと、意外に楽しかったという。タイに長年いた元将校によれば、赴任期間、ほとんど戦闘らしきこともなく、本土に比べて食べ物もおいしく、戦後もすぐに日本に帰れたという。親父の場合も、終戦後、ソ連の捕虜となったが、国境付近にいたので、初期の捕虜でシベリアには送られず、モスクワ南部のマルシャンスク捕虜収容所にいた。ここはイタリア、ドイツ兵もいて、捕虜生活、ことに食糧はひどかったが、シベリアほどの強制労働はなく、ましては歯科医であった親父は収容所内で無麻酔での抜歯ばかりして、上達したと言っていた。四国、徳島県脇町に戦前いたお袋に聞くと、昭和18年以降は少し食糧難であったし、兄はインパール作戦で戦死したが、戦時中でもそれなりに楽しい思い出があった。


 こうしたことを聞いていたので、映画「この世界の片隅に」には、非常に感動した。この映画は、戦争讃歌あるいは逆に反戦映画とは異なるリアルな戦争経験を描いた作品と言える。主人公のすずさんは昭和元年生まれで、うちのお袋、大正13年生まれと同世代であり、今度、アニメをお袋に見てもらって感想を聞いてみたい。もはや大東亜戦争から73年。戦争を実際に経験した人もいない時代となった。私たちの世代(1956年)にとって、この戦争経験者は全く頭が上がらない世代であり、説教をされても素直にハイハイとしか言えない存在であった。何しろ彼等は、戦争とは言え、人を殺した、逆に殺されかけた人であり、それだけでもすごい。こうした世代がいっせいにいなくなり、抑えがなくなったため、随分開放感があるが、一方、自分も含めていいかげんな、無責任な人間が多くなったのかもしれない。もはた戦前、戦後という言葉は死語になったのであろう。

2018年5月4日金曜日

矯正歯科のクレーム



 先日の千葉の歯科医院の突然の閉院に伴う矯正治療費の問題もそうだが、相変わらず矯正治療費や治療内容についてのクレームが多い。 矯正歯科のクレームについて少し考えてみる。

1.      矯正料金費
矯正治療費には、治療費そのものへのクレームと転医の場合の返金が問題となる。
1)      治療費
矯正治療費はさまざまなタイプがあるが、多いのが基本治療費と調整料という組み合わせであろう。さらに小児からの長期に渡る治療が必要な場合は、一期治療と二期治療にわけ、それぞれに基本治療費と来院の度の調整料、観察料をとる。あるいは調整料も含めてトータルフィとする場合もある。国立大学病院を除くと装置ごとの値段を決めることは少なく、治療終了までに必要な装置はすべて基本治療費に含まれる。さらにいうと、矯正治療の場合は治療が終了して保定に入ってから、後戻りが起こる。患者が再治療を希望したなら、この費用も基本治療費に含めることは多い。またインビザラインなどの治療でうまくいかない、期間がかかり、他の装置、マルチブラケット装置で治療する場合も追加料金はかからない。ただ医療については最善の方法を用いても、うまく治らないこともあるため、医療契約は準委任契約と呼ばれ、医師は患者さんのために最善の治療を行うが、治癒までは必ずしも契約の成果物としないことになっている。すなわち患者にとって満足がいかない結果であってとしても治療が行われたなら治療費が発生する。
 2)転医の場合の返金
 転住により今、通院している歯科医院に行けない場合、通常、転住先の引継の歯科医院を探し、治療段階に沿った料金の清算を行う。最初の咬合状態から終了までの、どの段階かを判断して、総額の治療費から清算額を決める。例えば総額で50万円、治療の半分で転医となった場合は、前納していれば、半分の25万円が清算額となる。こうした方式は欧米では決まっていないが、日本では日本臨床矯正歯科医会が提唱し、さらに日本矯正歯科学会も推奨している。ただ日本矯正歯科学会では国立大学の矯正歯科がこうした返金システムをとれないが。
 契約書に“途中、治療が継続できなくなっても、一切返金しない”と記載しているので、一切返金に応じない医院もあるが、これまでの裁判例では認められない。同様に患者がそこの医院の治療に疑問があって他院へ転医するのも、“患者の勝手で転医するのだから返金しない”という先生もいるが、これも裁判例では認められない。
 これについては特定商取引法が施行されると、治療前、治療後にかなり細かな契約書が必要であり、これがなければ、いつ何時に患者から治療を辞めて他のところで治療したいと言われれば、ほぼ全額返金となる(ルール上、契約した時点からクーリングができるが、契約がないと言われた時からクーリングができる)。もちろんHPで一般的でない誇張した宣伝をすれば、最悪、業務停止となる。

2.      治療結果について

 医療においては、人体を扱う関係上、100%成功するとは限らない。矯正治療においても理想的なかみ合わせを100とすると、それを目標にしてもなかなか95以上にするのは難しい。さらに治療後、10年、20年、30年後を考えると、時には矯正治療をするのを辞めたくなる。少なくとも80以上を目標に治療を進めるが、それでも中には治療途中で歯根の吸収があったり、歯が動かないことがある(骨性癒着)。こうした場合は60くらいの結果しかあげられないことがある。また患者によっては、常に100を求め、少しの問題があっても厳しく問われることがある。保定2、3年し、保定装置を止めて数年後、下の前歯が少し、後戻りしてでこぼことなったとしよう。これは矯正専門医ではよくみることだが、厳しい患者からは再治療を求められる。そうした場合は、当然、再治療をして固定式の保定装置を入れるが、それでもまた後も戻りすることがある。10年間で3回再治療したことがある。

2018年5月2日水曜日

故郷は遠きにありて思うもの



 津軽に住んでかれこれ24年目になる。ということは24歳以下の津軽生まれの人よりは長く住んでいることになり、まあまあ地元民と言ってもよかろう。兵庫県尼崎市に生まれ、そこに19年間、その後、仙台に9年間、鹿児島に8年間、宮崎に1年間、そして弘前に24年間と、最も長く住んでいるところであり、今のところ死ぬまでこちらにいる予定である。

 弘前という街は、非常にモダンで文化的な街であるが、逆に地縁的で保守的な傾向も強い。例えば、中心街にある紀伊国屋弘前店をのぞいてみてほしい。郷土の本というコーナーがあるが、書棚の一つのコーナーすべて、おそらく百冊以上の郷土関連の本がある。すべて地元、主として弘前の人が書いた本である。俳句集などは複数の作家が書いている場合もあり、この書棚にある作家だけでも百名以上はいるだろう。人口17万人で百名、つまり1700名に一人が本を出版したことになる。これはすごい数値であり、自主出版が全国的にブームとはいえ、かなり高い数値といえよう。またサークル活動が盛んであり、クラシックバレー教室が3つ、交響楽団、オペラ、ジャズビックバンド、コーラス、津軽三味線、さらに琴、尺八に能、書道、絵画など本当に多くのサークルがある。さらにはこぎん刺し、裂き織り、陶芸、盆栽、金魚、俳句、歴史など多彩な会があって、活発な活動をしている。またサッカー、卓球などのNPO団体やボランティアガイドなどの活動もある。人口当りのこうしたサークル活動の割合は高いと思えるし、その内容も高い。

 一方、これはあくまで個人的な感想ではあるが、“津軽の足引っぱり”、これは誰かががんばろうとする、あるいは目立とうとすると足を引っぱりじゃますることであり、こうした傾向は何も津軽に限ったことではない。ただ津軽では、この程度がひどく、目立つ人物がいれば必ず悪口をいう人物が現われ、つぶす。例えばAさんという人がいて、人格者で、仕事もでき、今度は勲章をもらえることになったとしよう。すなおにAさんはすごい、尊敬するというのは普通の反応であるが、津軽ではどうも素直な反応ができないようで、ひねくれていて今でこそAさんは立派になったが、子供のころはこんなこともしていたとか、Aさんの母親の弟はとんでもない奴だとか、こんな悪口ばかりが日常的にでていくる。とくに飲み屋での会話で、酒が入ると、人をほめる話が20%とすると、人の悪口が80%で、本当に悪口が好きである。さらに酒が入っても絶対に言ってはいけないことがあるが、心に感じたことをそのまま言葉に出す人がいて、びっくりすることがある。こうしたことが嫌いで故郷を出る人も多いし、故郷に残るひとでも出来るだけ人と接しない、目立つことはしないという人もいる。

 上京して功成り名遂げても、故郷に帰る人物は少なく、わずかな例外で、晩年、津軽で過ごした明治の探検家、笹森儀助も故郷ではあまり恵まれた生活をしていない。故郷は遠きにあり思うもの。故郷を離れて東京などの都会に住む津軽人の故郷への愛情は強いが、反面、憎しみも強い。ことに雪が降り、寒い冬の長い季節は、思い出としては懐かしい風景であるが、実際の暮らしとなると苦しい。同様に故郷の訛りは懐かしいものの、棘のある言葉、複雑な人間関係、冷たい対応など嫌な面も多い。他県人に比べても津軽人の愛憎を混ぜた故郷を想う気持ちは誠に屈折して、複雑である。