2007年2月3日土曜日
珍田捨巳 1
珍田捨巳(ちんだ すてみ 1858-1929)。変わった名前だが、いい名前である。弘前が生んだ日本を代表する外交官の一人である。1856年12月24日、弘前市森町時鐘堂前で下級津軽藩士の家で生まれる。藩学校(稽古館)を経て、東奥義塾(現東奥義塾高校)でジョン・イングから英語を学び、そのつてをたより、アメリカ、アズベリー大学(現インディアナ州デポー大学)に留学。その後、外務省に入省し、1890年にはサンフランシスコ領事として、その頃盛り上がっていた日本人移民の排日運動の解決に関与した。1901-1908年には外務次官(外務省総務長官)として桂首相、小村寿太郎外相とともに日英同盟、日露交渉、日韓議定、日仏、日露協定、日米紳士協定に尽力した(日露戦争 1904年)。1908-1911年にはドイツ、ブラジル大使、ロシア全権大使を勤め、1911-1914年にはアメリカ大使として赴任、ワシントンDCのポトマック河に桜を植える。1914-1920年には英国大使になり(第一次世界大戦 1914年)、パリ講和会議には全権委員として牧野伸顕らとともに人種差別撤廃条項を提出。国際連盟事務局次長に新渡戸稲造を後藤新平らとともに推挙。日露戦争およびパリ講和会議の功により伯爵に。その後、皇太子時代の昭和天皇のヨーロッパ外遊した際には供奉長として付き添う。1927-1929年には昭和天皇の侍従長となる。
一度も外務大臣などの華やかな役職はなく、地元でもあまり知られた存在でないが、上記の履歴からわかるように明治の重要な外交史にほとんどかかわってきた。後輩の松岡洋右によれば普段は津軽弁なまりの朴訥な人物であるが、仕事させると実に有能だったという。捨身、捨己と言ってもよいほど自分を捨てて国、天皇に誠実に使えた外交官で、誠実な人物であった。
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5 件のコメント:
素晴らしい人が日本の外交を支えられていたんですね。ブラジルの初代公使のお名前が随分変わった名前だと思っておりました。ブログにより、そのほかの数々の働きをなさったこと、教えていただきました。
ありがとうございます。
珍田という名前は青森でも珍しい名前です。アメリカ、ブラジルなどの領事館勤務時代に、人種差別による排日運動に関与したことから、パリ講和会議での人種差別撤廃条項に繋がります。当時の世界状況は白人至上主義で、そうした中でアジア、日本の地位をどのように挙げるか苦心したと思います。
メールの方に直接、お返事書きましたので、見て下さい。
偶然、このサイトを見つけ、拝見しました。珍田捨巳は、高祖父にあたります。かなり昔の話ですが、北米に在住していたころ、珍田捨巳の子孫が北米にいるということを大使館経由で聞いたらしく、ワシントンDCで毎年チェリブロッサム祭りに私どもが招待された記憶があります。
その時に、すごい人の子孫なんだなと思ったことを覚えております。それまではまったく知りませんでした。
珍田捨巳は、何度か外務大臣を要請されましたが、最後まで拒否し、事務文官として、今でいう外務次官に留まりました。
その姿勢は、今でも外務省の文官から尊敬され、鏡と考えられています。
外務省職員の中では、人気のあるOBです。
さらに昭和天皇は珍田を慈父のように思い、愛しましたし、珍田も亡くなる直前まで昭和天皇の侍従長として勤務しました。
さらに言うと、珍田の推薦で、鈴木貫太郎が珍田の後の侍従長になったことは、日本の終戦まで関係することになりました。
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