2025年12月4日木曜日

西村しのぶさんのこと

 



先日、リタイア後の生活として、漫画、アニメをもっと見たいというと、友人から「先生が漫画好きとは意外だ。そんなものには興味がないと思っていた」と言われた。私は大の漫画好きで、小学校1、2年生くらいから少年マガジン、サンデー、キングなどを読むようになり、高校卒業まではずっと週刊マガジンを購買していた。その後は、週刊誌は読まなくなったが、単行本はずっと読み、ここ30年くらいは年間で100冊は読んでいる。主としていわゆる青年誌というカテゴリーのもので、今、読んでいるのは「大乱 関ヶ原」、「Blue Giant」、「昭和天皇物語」、「絵師ムネチカ」、「平和の国の島崎へ」、「正直不動産」、「Dr.Egg’s」、「史記」などである。どうも女性漫画については、読み慣れていないせいか、ほとんど読んだことはなく、思いつくだけでも女性作家の漫画は「のだめのカンタービレ」、「ガラスの仮面」、「坂道のアポロン」、「テルマエ・ロマエ」、「ピアノの森」くらいしか思いつかない。

 

個人的には、女性漫画家の中で、もっとも気になるのは、神戸のことをオシャレに描いている西村しのぶさんである。なぜかというと、西村さんの作品には広瀬という名のキャラクターが複数存在する。まず処女作の「サードガール」では、広瀬和正という歯科医が登場する。さらに「メディックス」では広瀬浩一という医師が登場し、「RUSH」では住吉という矯正歯科医が登場する。また「サードガール」では、主人公の神崎川夜梨子は神戸市出身、聖K女学院中等部、高等部、短大とされているは、おそらく甲南女子中学、高校、大学短期大学部のことと思われる。ちなみに神崎川という名は、奇妙な名であるが、阪神尼崎に住む人から見ると、尼崎市と大阪市の境、淀川の支流、神崎川を思い出す。昔は汚い川で、主人公の名としては奇妙である。また夜梨子の彼氏、大沢悠也は神戸、六甲学院から京都大学という設定となっており、広瀬、六甲学院、歯科医、矯正歯科医という点でも、不思議に自分と一致する。実際、RUSHが出た当時、1993年頃は、まだ神戸市でも六甲学院の先輩の小島矯正歯科など、数軒しか矯正歯科医院はなく、この時代に矯正歯科医を作品に取り上げるのは珍しい。

 

昔、甲南女子中学校の子を好きになった。彼女は阪急塚口駅近くに住まいがあり、おそらく1960年か1961年の生まれ、神戸大学附属住吉小学校と甲南女子中学に通学していた。小学校から越境入学させるのは、医者かよほど教育熱心な家庭の出であろう。背の高い、綺麗な子だった。当初、西村しのぶさんかなあと思ったが、Wikipediaによれば西村しのぶさんは、19635月生まれ、宝塚市の出身、神戸市外国語大学在学中に小池一夫主宰の劇画塾に入りデビューしたとあり、年齢、住まいも違うので、全くの別人である。

 

ただ興味があるので西村しのぶさんの作品を、きちんと読もうかと、これまで何度か挑戦した。「サードガール」も一巻目を買って読んだが、二巻目には進めず、また「RUSH」も一巻目でギブアップ、「下山手ドレス」は二巻と三巻をかろうじて読んだが、どうも作品に入り込めない。時代、舞台とも私はよく知っている神戸なので、よくわかるはずであるが、どうも女性読者にはハマるが、男性読者には内容について行くのが難しい作品なのかもしれない。

 

本当に寡作な作者で、ごく稀に作品を発表するようで、最近では2021年に「砂とアイリス5」を発行したのが最後である。プロの漫画家、それも多くの人に支持されている作家は、天賦の才能を持つ人である。私の尊敬する女優、カトリーヌ・ドヌーブは、初期の「シェルブールの雨傘」以降も次々と作品を発表し、老年に至った今でも渋い演技を見せている。漫画家も若い時とは違った、私たちのような古いファンを対象にした作品を発表してほしい。島田順子さん、大橋歩さんなどのように80歳を過ぎてもデザイナーとして活躍している人もいる。西村しのぶさんはまだ62歳で、まだまだ若く、60歳代のおしゃれ、生き方、恋愛を、漫画を介して発表してほしい。才能のある人は、その才能を世間に出す義務があるように思える。コアのファン、多分40-60代からすれば、本当に新たなシリーズが発表されるのをずっと待ち望んでおり、そうした声にも応えなくてはいけない。


2025年12月3日水曜日

矯正歯科医に紹介をしない歯科医院



歯科医院で矯正治療をしているところは多い。歯科診療所、68000件のうち、矯正歯科を標榜している歯科医院は27000件、39.7%の比率となる。このうち、矯正歯科専門の歯科医院は2000件くらいであろう。

 

一般の患者さんからすれば、矯正歯科を標榜しているのであれば、何らかの専門機関で教育を受けたと思うが、多くの先生は数回の講習会を受けただけで、専門知識もないし、技量もない。患者さんが歯並びについて先生に尋ねると、普通は矯正歯科専門医を紹介する。なぜなら自分は専門教育を受けたこともないし、できないからである。当たり前である。私の父親は50年間、真面目に歯科医をしてきたが、不正咬合の患者は全て矯正歯科の先生に紹介してきたし、私の兄も歯科医だが同じようにしている。

 

なぜできもしないことを標榜し、患者に勧めるのか、全くわからない。以前、もう十年以上前だが、地元の矯正歯科のスタディーグループに入っていたことがあった。月に一度、症例を持ち寄り、皆で検討するような会であった。私以外は全て一般歯科医だったので、結局は私の意見が治療方針になった。そこで報告される多くの症例で「先生の力では、この症例は治療できないのでやめなさい」と厳しく言うことが多かった。もちろん簡単な症例で、一般歯科の先生が手を出してもいいのもあるが、成人症例の多くは、マルチブラケット装置の知識と経験が必要であり、これをマスターしている一般歯科医はほとんどいない。例外は矯正歯科の医局に3年以上勤務して、専門医にならないで一般歯科で開業した先生だけである。

 

それでも先生方は治療する。その挙句、うまく治療できないと、「これが限界だ。私は専門医でないのでこれ以上治せない」と言う。これで費用がものすごく安かったらまだしも、ひどいところになると専門医の私のところより矯正料金が高い。それではこうした先生は、金儲けのために矯正治療しているのかというと、そうではない。単純に患者は自分のところでの治療を希望してきたのだからだと言う。なぜわざわざ自分のところでの治療を希望している患者を矯正歯科医に紹介するのか、あるいは矯正治療くらい誰でもできると考えている。もちろん、私の父や兄のように矯正治療に関心がない歯科医は、患者から歯並びの相談を受ければ矯正歯科医に紹介する。ところが少し矯正治療をかじった先生は、自分で治そうとする。ではなぜこうした考えになるのか、それは一般歯科医の多くは矯正治療のゴールを知らないからである。

 

マルチブラケット装置を扱う際には、矯正歯科治療のゴールというのを研修機関でさんざん叩き込まれる。具体的にいえば、大臼歯関係はI級、適切なオーバーバイト、オーバージェット、緊密な咬合、そして一番大事なのは美しいフェイスライン、こうしたゴールについて厳密な点数付けが可能であり、100点満点の何点と採点することができる。実際、専門医の症例審査では、こうしたクライテリアに従って点数を出して、その結果によって合否を判定する。一方、一般開業医には、こうした採点ができるか疑問である。例えば、歯のデコボコのケースでは、とりあえず並べればOKとする先生もいる。矯正歯科医では、もちろんデコボコは取るし、前歯、奥歯をしっかり噛ませて、綺麗なフェイスラインを作ろうとする。今時は矯正装置も発展しているので、形状記憶のワイヤーを入れれば、デコボコは容易に改善する。難しいのはきちんとしたゴールの達成で、これをマスターするのが大学の矯正歯科講座での最低でも3年の教育が必要である。その点、小児の矯正治療を主訴は大まかに治れば、子供も親も満足するのでまだしも、成人はこうはならない。そうしたこともあり、矯正歯科と標榜していても子供の矯正治療だけで大人の矯正治療は紹介するという先生は多い。問題はインビザラインによる矯正治療を勧める歯科医院である。インビザラインの患者の多くは成人症例で(子供はGO)、こうした患者は仕上げに厳しい。患者を満足させるにはマルチブラケット装置でも難しく、ましてやインビザラインで治療ゴールを達成するのはさらに難しく、クレームになるリスクが高い。矯正歯科医の場合は、最悪、インビザラインからワイヤー矯正、外科的矯正に変更することで治療は可能であるが、一般歯科医ではそうしたことができない。

 

料金も同じなので、なせ専門医のところで治療しないで一般歯科医で治療するのか、これは明らかに患者に責任がある。今時こうしたことはネット上では常識で、高い費用を出して、長い期間を費やすなら、どこで治療を受けるか。特に成人患者では、専門医で、少なくとも日本矯正歯科学会の認定医のところで治療を受けるしか選択肢はない。You Tubeで矯正歯科のチャンネルを見ていると、専門家から見ると素人レベルの先生が、さも知った顔をして語っている。私が尊敬し、臨床能力の優れている先生は、一切、YouTube、インスタには出ていないし、そもそも認定医の更新でネット広告がチェックされ、YouTubeの動画はダメであろう。皮肉な言い方をすれば、YouTubeで出てくる先生で派手に宣伝している歯科医院は、少なくとも医療広告法あるいは学会の倫理規定に反しており、そうした法律を破るようなところで治療を受けるのはいかがなものかと考えるし、多くは認定医の資格すらない、きつい言い方だが素人と言っても良い。素人のところで高い治療費を払い治療するのは患者にも責任がある。


 

2025年12月1日月曜日

鈴木雅の父親 わからない

 



Wikipediaによれば鈴木雅の父親は、静岡県士族加藤信盛、鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後も日本各地を転戦し、最後に五稜郭に立てこもり生き残ったとある。つまり、幕末戦争、箱館戦争に参加した加藤という士族を探せばいいわけで、調べるのは簡単だと思っていた。ところがどこを探しても加藤信盛という名は出てこない。武士は通常、多くの名前を持っており、号、諱、字、通名などあるため、信盛の他の名前で出ている可能性が高い。さらに難しいのは、明治維新後に通名も変える人が多く、過去の調査でも、別人と考えていた人物は実は同じ人物で、明治以降に名前を変えたという例があった。そこで該当する人物を国会図書館デジタルアーカイブで検索していくことにする。

 

まず、幕府崩壊に伴い静岡藩に移った幕臣、2500名について記された「駿府表召連候家来姓名」というものがある。これには27名の加藤姓が記載されているが、そこには加藤信盛の名前はない。ただこれは慶応4年に静岡に移住した人で、明治2、3年に移住した者の名前はない。箱館戦争に参戦した幕臣の名前はおそらくないであろう。

 

次に箱誰戦争に参戦し、脱走した幕臣の氏名を記載した「箱館戦役徳川脱走軍人名簿」が北大の北方資料関係の資料に中にあり、WEB上で公開されている。それを見ると、加藤新次郎、加藤春之助、加藤精一郎(折戸死?)、加藤光蔵、加藤作太郎(宮古死)、加藤一、加藤金二郎(江良町官手_?)、加藤喜十郎(松前?傷)、加藤覚之氶(箱館丸)、加藤長太郎、加藤國三、加藤昇太郎、加藤幸造、の13名の名前がある。これらは「駿府表召連候家来姓名」の27名の加藤姓とは一致せず、やはり箱誰戦争の参加者は「駿府表召連候家来姓名」には記載されていないようである。そのため戦死者を除いた11名が加藤信盛の可能性がある。

 

信盛は日本各地を転戦したとあるが、鳥羽伏見の戦いと箱館戦争に参戦し、彰義隊に参戦しないわけはないと考え、彰義隊のメンバーの中から加藤姓を探った。彰義隊のメンバーの中で、加藤姓を持つものは、加藤順四郎、加藤光逸、加藤新太郎、加藤重吉、加藤金次郎(戦死)、加藤今吉、加藤作太郎(宮古にて戦死)、加藤勇太郎、加藤大五郎、加藤光造、加藤真太郎、加藤誠一郎(戦死)、加藤正太郎、加藤栄之進、加藤帰之郎、加藤昌三郎、加藤八郎がいる。彰義隊、箱館戦争の両方に名前があるのは、加藤光蔵と加藤帰之郎である。加藤光造は埼玉県幸手市のホームページ(市指定文化財「伝彰義隊士横山光造所用陣笠」の説明文で、安戸村二本木生まれの剣士、横山光造が彰義隊では加藤と名乗り、その後、箱館戦争にも参戦し、戸島に戻り、そこで剣道を教えながら、明治32年に81歳の生涯を閉じるとしている。名前も元の横山光造(蔵)に戻すので、鈴木まさの父親、静岡藩士、加藤信盛ではない。加藤帰之郎は彰義隊、箱館戦争にも参加する800石の旗本で、本家は3600石の高官、加藤光泰、光直であるが、年齢的には合わない。

 

結局、加藤雅の父親、加藤信盛については、同定できなかった。ただ東京大学の鈴木博之先生が「下級武士の暮らし 彰義隊組頭加藤大五郎の背景」という論文で、彰義隊の第二白隊の隊長、加藤大五郎について取り上げている。加藤大五郎の兄は鈴木源五郎重固という旗本で、そして次男で家を継げなかった大五郎は加藤清正に憧れて加藤姓の家に養子にいき、彰義隊に参戦し、明治維新後は横浜に逃れ、商売をしたという。兄の源五郎は測量の技術を持っていたので、新政府に出仕し、キリスト教に入信し、明治20年に亡くなった。箱館戦争に参戦したかは不明であるが、履歴は加藤雅の父親に似ているが、大五郎=信盛かは全くわからない。ただ加藤雅の嫁ぎ先は鈴木良光、父、信盛の生家、鈴木と同姓であるのも不思議である。


鈴木源五郎重固の名は、静岡学問所、沼津兵学校関係者によるキリスト者、静岡バンドの中にその名前が見える(宇野美恵子、西周の教育思想における東西思想の出会い 沼津兵学校時代を中心に、北東アジア研究、14/15,2008).中村正直は横浜共立女学校の創立に関係した人物で、強引に辻褄を合わせると、中村正直と鈴木源五郎は友人で、弟の娘、マサの進路を相談したところ、共立女学校を紹介されたと。何しろ中村正直は明治四年亜米利加婦人教授所告示という生徒募集広告を書いた人物である。妻、娘3名をここに行かせた。


2025年11月23日日曜日

佐藤慎一郎先生の50年前の教え

 



 弘前出身の拓殖大学、中国学者、佐藤慎一郎先生は、あの文化大革命、毛沢東礼讃の時代、1人、その本質を見抜いた人物である。彼ほど中国と中国人を愛した人物は少なく、何度も中国人に助けられて生き残った。さらに彼の誠実な人柄は多くの中国人に愛され、語学も堪能なことから、政府発表とは異なる情報源から現代中国の真実を見ようとした。以下の文は、ラクーンのブログに掲載されたもので、佐藤慎一郎先生の講義をテープにとり、それを文字起こしした。その内容はほぼ50年たった今でも新鮮である。高市首相をめぐる今日の日中関係も見ても、中国政府関係者はこの北京大学の先生、郭沫若と同じと考えればよく、中国共産党の体質というのは、あれだけ経済が発展しても全く変わっていないのに驚かされる。是非、全文を読んでほしい。

 佐藤慎一郎先生は、岸内閣から30年以上に渡って総理に報告したが、そのレポートは国政の参考になったと思われる。高市内閣では、松田康博東大教授(非常に優秀)のような軍事専門家もブレーンとして必要だが、中国の古典をきちんと学んだ佐藤慎一郎先生のような存在もほしいところである。できれば中国政府に対して、中国古典の的確な引用で返答してほしいところである。

 

ラクーンのブログ

http://racoon183.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/19766-3d82.html

 

さて、昨年、私は香港へ行きました。香港で北京の大学の先生と会いました。私がこの大学の先生に話を聞いて、三日間、ノートとりました。朝から始まって、お話をノートした。僕がこの大学教授に「先生、あんたは郭沫若をどう思いますか?」とこう聞いた。そしたら「あの人は素晴らしい学者です。毛主席も信頼しています。」とくる。「おーちょっと待て、あんたね、ここはね、北京じゃないよ。ここは北京じゃないの、あんたを誰も監視していないの。ここは自由社会という自分で信じたこと自分で考えたことそのまま言っていいんだよ。しゃべって大丈夫な自由社会ですよ」こう言った。

そしたらね、「すみません、ついその癖がでました。私たち北京におればね、なんか質問されれば、まわりをみて皆はどういうだろうということをまず考えて、それからその上を行くようなことを、嘘を言うんです。つい癖がでて、つまらんことを言ってすみませんでした」というから、「いや、誤る必要はないよ、あんたは郭沫若をどう思いますか?とあんたの本当の気持ち、僕は聞きたいんだ」といったら、彼いわく、「あのくらい悪い奴はおりません、あれは悪党です。あんなずるい奴おりません。風をみて舵を取るけしからん奴だ。あれくらいずるい奴ありません」。「どうずるいの?」と聞いたら、「いや、わたしたち北京の大学の先生たちは、文化革命始まる前までは、郭沫若という人を尊敬しておりました。ところが文化革命が始まったら、これは自分にとっても危ないなあと、この人頭が良いからすぐわかった。それで、まだ労働者や学校の紅衛兵が彼を呼びつけてもいないのに、彼自ら出て行って『私はいままで、何千何万の論文を書いたけれども、あんなものは論文に値しない、全部焼き払ってくれ。私は今日から毛主席の一年生となって毛沢東思想を勉強します』とこういった。そうして皆に謝って、まだ誰も彼をぶんなぐらないうちに自分からでんとひっくり返って『さあ、殴れ』とこう言った。『俺みたいな悪い奴、さあ殴ってくれ』とこう言った。このね、狡い、狡さにはかなわない、こうやって彼は助かった。このずるさにはね我々唖然とした。それ以来、みんなこの野郎と思って、誰も彼を尊敬するものはおりません」。「わかりました。あんたはそうおっしゃるが、あなたは去年二月まで、北京大学に長く働いていらっしゃいましたね。長く働いていられたのは、あの共産党の世界でどういう態度をもってあなたは生きてきたから、働くことができたのですか?郭沫若けしからんというのは、わかりました。それなら、あなたはどういう態度で生きてきましたか?」こう尋ねた。そうしたら、彼しばらく下を向いておった。「そう言われると恥ずかしいかぎりです。わたしたちはあの郭沫若に唾でもひっかけてやりたい気持ちですが、あの強力な共産党の中で生きるためには、郭沫若の生き方以外に生きる道はないということを教えられました。それで、私たちも郭沫若に学んで、あの狡さを見習って今日まで生きてまいりました。そうしなきゃあとても生きられませんでした。」と白状しました。

それで、私はその話が本当か、去年あった革命委員会の共産党員に聞いてみました。こういう話を聞いたけど、あなたはどう思うかと問いかけました。「いや佐藤さん、それは無理だよ。あの共産党の世界でね、そんな自分の意見なんか言って生きられるもんじゃない。一日だって命がない。正直に言ったら絶対駄目です。なぜなら、私も嘘八百でそういった芝居をやりながら生きてきましたから。とにかく、その場その場の芝居やるしか我々は生きる方法がないんです」とこう答えました。

良く聞く話ですが、日本人の旅行者が北京に行き郭沫若に会って、郭沫若はこんなことを言っていたというようなことを報告しています。誰も信用しない奴の話しを聞いてきて、この嘘八百の話をとくとくと日本で発表しております。それをまた読む奴が、さすがは偉い学者だと言って感心しているかどうかはわからんけれども、じっくり読んでいるというのが現状です。裏の裏を読まないと、何が本当で、何が嘘なのかわからないでしょう。そういう状態ですから、大陸におけるあらゆる現象はすべてその場その場の芝居であると私は判断しています。中国語にホンチャンソウシ(逢場作戯)という言葉があります。その場その場に合わせて芝居をやる、こういう言葉がありますが、これが現代の中国人の生き方であろうかと思います。本当のことを言えない、こういう世界であると私は信じております。


2025年11月19日水曜日

リタイヤとは 楽しい引きこもり、楽しい隠遁生活

 



今年の1220日の診療をもって診療所を閉院する。その後、1か月くらいで院内の備品を整理して完全引退となる。半年くらい前から古いカルテや模型などを業者で処分してもらっているが、個人情報、医療廃棄物などの規制があり、かなり費用がかかる。幸い、歯科用ユニット、レントゲンなどの大型機械は処分、廃棄するところも決まり、その他の機器類も寄贈先も決まった。院長室には、膨大な矯正歯科関係の本、雑誌、論文があり、この処分をしているが、最終的には全て処分することにした。この5月に一戸建てからマンションに引っ越してきたので、スペースが全く不足し、矯正歯科関係のものをおくところがないのが理由である。

 

古い論文や本を紐で縛り、処分すると、今まで歯学部に入学してからの50年以上の自分の歴史を全て捨てるような気がして寂しい思いがする。これからは先生と呼ばれることもなくなるし、職業欄は“歯科医”ではなく、“無職”になるのだろうという思いもある。歯科医というだけで世間的には得をしたことも多かったが、そうした特権もなくなる。ただ矯正歯科という非常に期間のかかる治療を行う職業では、辞める時を自分で決めなくては、患者さんに大きな迷惑をかけるため仕方ない。友人、知人、あるいは患者さんからもどうして辞めるのかと聞かれることが多く、さらに病気説が流れたりもする。

 

 

矯正歯科の場合、通常のマルチブラケット装置でも2年間の治療が必要だし、子供の場合は、一期治療、二期治療も含めると10年以上かかることも珍しくない。そのため閉院にあたり、子供の治療は5、6年前から新規患者の受け入れはやめ、2年前から全ての新規患者の受け入れをやめた。一応、通常の患者の動的治療(マルチブラケット装置による治療)は全て終了できそうだが、保定終了までは診ることはできず、近くの先生に紹介している。唯一失敗したのは、外科的矯正の患者で、術前矯正が終了して口腔外科へ入院予約をしても、すぐに手術ができず、長い場合、半年以上のタイムラグが起こる。そのため数人の患者については、術後矯正が終了できす、動的治療中の状態で転医することになる。申し訳なく思っている。

 

歯科医の引退というと、通常の退職のない職業、個人商店、飲食店などと同じで、健康上あるいは経営上の問題から辞める。うちの親父は85歳くらいまで歯科医をしていたが、最後の方は1日の患者数が4、5名となる、ワンオペで診療していたが赤字となったので、やめて引退した。従業員が居れば、もっと赤字になる時期は早い。

 

先日も、友人でリタイアについて議論した。健康で、充実した老後を送りたいという声が多く、診療所を小さくして自分の理想の歯科診療を行いたいという友人もいたが、それはリタイヤしないということだとからかわれていた。他には、旅行に行ったり、ボランティア活動をしたいと友人もいたが、私はリタイヤとは、何もしないことだと思う。もっというと世間からは忘れられた存在になり、葬式には家族と少数の友人しか来ない存在になることかと思う。不思議なことに現役時代はあれほど、いろんな場所で頻回にあった先輩歯科医に、リタイア後は全く会わなくなる。リタイヤしたから家にずっといるわけではないと思うが、全く会わなくなる。リタイヤとはこういうものかもしれない。忘れられていく存在なのだろう。

 

アメリカ人に聞くと、リタイヤして家でビールを飲んで、好きな音楽や映画を見たり、プレステでゲームをしたり、釣りをしたり、何もしないことがリタイヤだという。朝起きる時間も決まっておらず、寝るのもいつでも良い、おそらく幼稚園に入学した4歳くらいから、引退するまで規則的な生活をしてきたので、全く制約のない生活をするのは初めてと言っても良い。参考になるのは、引きこもりの人たちの生活である。引きこもりの楽しい点についてAIで調べると、「映画、ゲーム、読書、アニメなどの家で完結する趣味や、オンラインゲーム、YouTubeSNSなどのインターネットを介した活動、創作・学習としては料理、お菓子作り、塗り絵、立体パズル、語学学習、自宅での筋トレが挙げられ、さらに外出する際の楽しみとしては、自然に触れられる公園や河川敷、静かに過ごせる図書館や公民館、気軽に立ち寄れるショッピングモール、ネットカフェ、スポッチャのような複合型レジャー施設を利用する。」としている。これは参考になる。このうちあまりしたことないのが、ゲーム、料理、お菓子作り、塗り絵、立体パズル、筋トレなどで、ネットカフェやスポチャなども行ったことがない。シニア年間パスポートもあるらしい。ただ年寄りができそうなのはカラオケ、ダーツ、卓球、ビリヤード、ゴルフくらいか。孫と行くのはいいところかもしれない。また常連の飲み屋というのもないので、これを開拓する楽しみもあろう。

 

ここまで書いていて、これはひょっとすると中国の文人の理想、隠遁生活のことかもしれない。リタイアとは、よく言えば隠遁生活かもしれない


2025年11月17日月曜日

核兵器を持つ2つの独裁共産主義国家に隣接する日本と韓国

 


世界で最初の共産主義国は、1917年に政権をとったソビエトである。そして1991年に崩壊した。それから34年経ち、現在、共産主義国、社会主義国は、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバの5カ国だけである。世界195カ国のうちの5つである。残りは民主主義国家というとそうでもなく、実際は権威主義国家が最も多い。権威主義国家というのは、一応は民主主義を装った独裁主義国で、これが実際には一番多い。共産主義国家も広い意味ではこの権威主義国家に該当するし、イランやアフガニスタンのような宗教指導者が全てを決めたり、サウジアラビアのような国王に権力が集中しているところもあり、アメリカが世界に宣伝する民主主義国は必ずしも世界の標準ではない。

 

それでも欧米を主体とする先進国のほとんどは民主主義国で、後進国から先進国に発展するためには強い権力をもつ独裁政府のほうが効率良く、台湾も選挙による総統選が始まったのはここ30年くらいで、それまでは国民党、総統による権威主義国家により国力が発展した。同様に韓国でも金大中が当選したのが1997年、この頃からようやく民主化が進んだ。ある程度、国力が発展してから、民衆による突き上げがあり、権威主義国から民主主義国に移行する流れとなる。共産主義、社会主義国家では、体制を完全に転覆しないと、民主主義国家に移行するのは難しい。

 

歴史上、もしといえることがあるとすれば、1936年の西安事件を挙げたい。西安事件は張学良が中国国民政府の蒋介石を拉致して、国共合作を成立した事件である。それまで国民党との抗争により共産党は勢力を大幅に弱められていて、この事件をきっかけに勢力を回復し、その後の政権奪回につながっていった。むしろこの前に、日本と国民党が協力して徹底的に共産党を壊滅させておれば、のちの中華人民共和国は成立しなかったであろう。少なくとも日本は、満州国成立で矛を収めるべきであり、日中戦争を起こす必要性は全くなかった。もちろん、中国北部、朝鮮を占拠する日本帝国は、独立運動に伴い、朝鮮は独立し、満州は国民党中国に吸収されていったと思うが、アメリカとの戦争もなかったであろう。その場合は、日本は敗戦することもなく、日本の周囲は、共産主義でない中国(台湾を含む)、朝鮮となり、さらに広げてタイ、ベトナムなどに囲まれた民主主義国家群なった可能性がある。

 

現状では、東アジアは、共産主義国の中国、北朝鮮と権威主義国のロシアがあるのに対して、民主主義国は日本、韓国、台湾という関係となる。中国と北朝鮮を民主主義国にさせることで、これが日米韓台の究極の目標となる。特に今は、この共産主義国の中国と北朝鮮が権威主義国の色彩を強くしている。つまり中国では習近平、北朝鮮では金正恩の独裁制で、なおかつ習近平は72歳、金正恩は41歳と若く、現状の政治体制はまだまだ続きそうである。共産主義と独裁制が重なると、ろくなことはなく、毛沢東は朝鮮戦争、大躍進、文化大革命で数千万人の人民を殺し、スターリンは大粛清、強制労働収容所、ウクライナ大飢饉で数百万人の人民を殺し、カンボジアのポル・ポトは150-120万人、人口の1/4を殺した。現在、欧米の主要国、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどでは共産党はほぼなく、ヨーロッパでいえばソ連の崩壊により、周囲に共産主義国はなくなった。アメリカは近くに共産主義国キューバがあるが、それほど武力的に恐れる国でもなく、日本を取り巻く環境、中国、北朝鮮という二つの共産主義国、独裁制の核兵器を持つ国に囲まれた、は理解しにくい。さらに驚くことは、この状況で平和、外交で解決できると信じているマスコミ、左翼の人が多い。

 

以前のブログで通常兵器による台湾侵攻は不可能と書いたが、その後、最も費用がかからず、兵士の損失の少ない中国軍による台湾侵攻計画があるのを知った。台湾近辺、日本の南西諸島に戦術核兵器を打ち込み、次は台北、東京に打ち込むと脅し、内部から屈服させる方法で蓋然性は一番高い。アメリカ軍は、直接、在日米軍基地が攻撃されない限り、核兵器による自動的な中国への全面反撃はない。台湾近辺の海に中距離核ミサイルを打ち込む、本土の人口の少ない地域に打ち込む、自衛隊の派遣されている南西諸島の基地に打ち込む、犠牲者の少ない場所を選んで、戦術核ミサイルで脅しをかける。この方法であれば、アメリカ軍による報復核ミサイル攻撃は避けられ、おそらく即刻の自衛隊の全面出動、反撃はできず、国連で抗議し、中国への経済包囲網を築くくらいしか対抗方法はない。1995年の第三次台湾海峡ミサイル危機では、アメリカは2つの強力な空母戦闘群を派遣し、事態を収拾したが、この屈辱がその後の中国海軍の増強に結びついた。現在、中国も3隻の空母を保有し、沿岸部には多数の中距離ミサイルを配備し、1995年のように台湾海峡にアメリカ軍は出動しにくい。どのように対抗するか、核三原則の見直しもこの文脈に沿うものである。

 

 


2025年11月12日水曜日

日本に革命をと言っていた人は、今

 


私が東北大学に入学したのが1975年で、その頃はまだ学園闘争の末期であったが、活発な活動が行われ、教室がロックアウトされ、授業がなくなったり、教授に三角帽を被せて自己批判はさせたり、図書館前ではヘルメット、角棒でデモの練習をしていたりしていた。朝から教養部では、全学連の連中が“革命”、“反帝国主義”、などのオドオドロしい言葉が拡声器で流され、ビラを配る。当時、すでにほとんどの学生は、こうした学生運動に関心はなく、むしろ運動に夢中になっている連中を馬鹿にしていた。個人的に、そんなに革命が好きなら、大学など辞めて、中国、ソ連、北朝鮮など社会主義国へ行けばと思っていた。

 

若い頃の議論はよほど危険であり、革命と叫ぶなら、結局は革命に参加しろという結論になり、さらに理論を進めると爆弾を作って国会議事堂を爆破しろという極論までいってしまう。萩の松下村塾の吉田松陰はまさしくそうした人物で、生徒に狂えと火をつけ、生徒は師匠の言葉に追い詰められ、死んでいく。この歳になると、もし人から革命、革命というなら、お前は革命に参加しないのかと追求されても、あくまで言葉だけだと開き直れるが、若い時はそうできない。太平洋戦争末期、国を愛するなら特攻に参加しろという論理も、同じようなものである。

 

個人的には当時、学生運動に積極的に参加していた人、今は75歳以上になると思うが、今はどういった考えになっているのかが非常に興味を持つ。藤田省三、「転向の思想史的研究」は、戦前の共産党員がいかに転向するかという主題で、内容は忘れたが、意外に共産主義から真逆の右翼思想に向かい、積極的に軍部に協力する人が多いことに驚いた記憶がある。1960年、1970年代に安保闘争、学生闘争にどっぷり浸かった人々は、今どうしているのか。

 

そうした疑問に答えてくれる書が、岩波現代文庫の「原点 The Origin 戦争を描く、人間を描く」(安彦良和、斎藤光政、2025)である。著者の安彦はガンダムで有名なアニメーター、漫画家で、弘前大学在校時に学生運動にはまり、最終的には退学処分された。1947年生まれ、現在、77歳で、学生運動真っ盛りの世代である。この本では当時の学生運動の仲間との対談など、著作物ではなく、対談形式のため、本音が聞けて面白い。結論から言うと、その後の生き方は人それぞれであるが、安彦については、遠い過去の若気の至りという境地になっているように思える。それほど懐かしい思い出でもなく、今に思えば日本に革命と言っても誰もついてこなかったという反省もあるし、また心理的に深く傷ついた記憶と言うものでもない。今は皆、普通のおじさんになっているだけである。ただ一部の仲間は、その後、武力闘争、パレスチナ解放人民戦線へと革命路線を貫く人もいる。多くの人は当時のことについて沈黙している。

 

こうした感覚は、うちの親父の世代でも見られるもので、大正生まれの世代の多くは、否応なく戦争に参加し、多くの仲間が亡くなった。子供の頃に会った父の知人を思い出しても、特攻隊の生き残り、ラバウル航空隊の飛行士、ニューギニア、インパール作戦の生き残り、過酷な戦争経験をしているが、皆、普通のおじさんで、戦争中のことは戦友会以外で語ることはない。親父の場合、中国北部に3.5年間、その後、ソ連の捕虜収容所に3年間いた。この6年間のことは、断片的に聞いたが、多くは語らなかった。同じように学生運動をしていた人々も、すでに50年以上前のこともあって、ほとんど語ることはない。

 

私の場合、高校生の頃に毛沢東の文化大革命に憧れたこともあったが、その後、徐々にその真実が明らかになり、そして大学2年生の頃に、親に無理を言って外国人に解放されたばかりの中国に旅行に行った。そこには無惨な文化大革命の傷跡が残り、案内のガイド、ほとんどが文化大革命中は下牧、の口からは文化大革命の悲劇を聞いた。そして京都大学の竹内実教授、朝日新聞、左翼を恨んだ。彼らのような知識人が、あれほど礼賛していた文化大革命、そして造反有理というスローガンのイカサマを思い知った。ただの毛沢東の権力闘争の手段であり、若者の暴力だけであった。広州、北京の博物館の掛け軸は破られ、飾られていた。現在、中国はいまだに大躍進と文化大革命の犠牲者、おそらく数千万人を認めていないし、朝日新聞、左翼もそれには触れない。一方、テルアビブ空港乱射事件で26名を殺した岡本公三もまだ生きているし、いまだに支援者がいるという。12名の仲間を殺した連合赤軍メンバーも服役、逃亡している。学生運動そのものは、誰かに多大な迷惑をかけてなければ、忘れてもいいものかもしれないが、犠牲者、殺人が出たとなると、彼らこそ、公の場に出て、総括と自己批判をすべきであろう。一種のカルト、宗教のようなもので、テロ、戦争に向かう同じ方向性を持つものなので、藤田省三、「転向の思想史的研究」のような研究も必要かもしれない。安保闘争、学園闘争の当事者もすでに高齢となっており、その声を聞くのも今しかなくなってきている。


「原点 The Origin 戦争を描く、人間を描く」(安彦良和、斎藤光政、2025)はお薦めである。