2007年3月30日金曜日

山田兄弟4


中国のHPを見ていると、左のような写真がありました。解説によれば1924年11月24日、神戸にて日本の朋友らと写したものとなっています。前に坐わっているのは右から孫中山、宋慶齡、山田夫人、後ろに立っているのは右から菊池良一、戴季陶、島田經一、宮崎震作、萱野長知、宮崎龍介、山田純三郎です。孫文は、後に「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟・宮崎兄弟・菊池・萱野がある」とその自叙伝に記していますが、この中で気のなるのは菊池良一というひとです。インターネット検索ではあまり引っかかりませんが、調べると菊池九郎の長男で、衆議院議員を努めたひとでした(1879-1945)。津軽を代表する偉大な政治家菊池九郎の妻は、山田晧蔵(山田兄弟の父)の妹で、九郎の姉は晧蔵の妻だったようで、山田純三郎、良政からすれば、菊池九郎はおじ、菊池良一はいとこにあたると思います。菊池良一は、山田兄弟に誘われ、革命への運動に参加していくうちに深みに入っていったのでしょう。孫文は革命に尽くした日本人の3番目に挙げているところをみると単に資金の提供にとどまらなかったと思いますが、何をしたかはほとんどわかっていません。中国語がわかりませんが、「菊池良一」でインターネット検索すると、中国のものがヒットします。おそらく日本では無名でも中国、台湾では評価されているのでしょう。
写真では山田純三郎の奥さんも写っていますが、きれいなひとです。純三郎の嫁として大変苦労したと思います。

2007年3月29日木曜日

陸羯南2


青森新聞社の編集長になった陸だったが、県の政治をするどく批判したため、明治憲法下の言論統制法「讒謗(ざんぼう)律」にふれて罰金を受けることになる。嫌気がさし、新聞社を辞めた陸は25歳の時(明治14年)に上京して太政官文書局でフランス語を訳す仕事についた。陸がどこでフランス語を覚えたが不明である。ところがこの役人仕事も長続きせず、7年後には辞めて、新聞「日本」を作った。日本という新聞は、どこの政党にも組みしないし、営利を目的ともしない、陸個人の考えが反映された新聞であった。その趣旨には国民精神の発露を挙げているが、その当時の不平条約に対する欧化政策を激しく批判したものであった。現在でも中国やアフリカ諸国では汚職が蔓延し、国の発達を阻害しているが、それに比べ明治政府は武士の精神を受け継ぎ、汚職は少ない方と思われる。それでも権力を握る人間には不正が出てくる。陸はそれらの不正を激しく批判した。全文振り仮名抜きの漢文口調で、社会面などの記事も一切なく、発行部数も少なかった。それでも青年層を含む知識人に歓迎され、かっての朝日ジャーナルのようの存在だったのであろう。あまり痛烈に批判したため、89年から96年までの間に発行停止が32回、日数にして230日に達している。反骨ジャーナリストの面目躍如である。
この新聞「日本」は明治39年に経営難で時事新報系になって陸は社長を退く。福本日南、三宅雪嶺、長谷川如是閑など明治、大正を代表するジャーナリストも同時に退社した。陸のまわりには、その人格によるのか、あるいは人を見る目があるのか、優秀な人材が集まり、その才能を開花させる。正岡子規もそのひとりである。陸をあたかも慈父のごとく接し、陸も子規の俳句改革には異議を唱えていたが、本当に暖かく支援した。子規の墓碑には「日本新聞の社員たり」の一節が記されているだけであり、陸への強い尊敬が読み取れる。

2007年3月26日月曜日

陸羯南1


陸羯南(1857−1907)は弘前市在府町22番地で生まれた。津軽藩士 中田謙斉の子として生まれるが、後に親類の陸家の姓を名乗った。15歳のころ漢学者の工藤他山の塾に1年ほど行くことになり、そこで作った漢詩「風涛自靺羯南来」からその号を羯南とした。今の中学3年生と思うと、江戸、明治の日本人の漢学の素養は本当に高いものであった。その後、本多庸一が開設した東奥義塾の1回生として明治5年に入学した。同期には珍田や一戸、伊東らがいる。ここで2年間英語を習ったが、切り替えが難しかったのか、その後もあまり英語とは関係ない人生を送っている。家が大家族で(これも姓を変えた理由か?)、私学の義塾に通う金がなかったせいか、仙台の師範学校に移った。薩摩出身の校長の横暴に腹を立てすぐにやめ、東京に行き、今度は司法省法学校に入学した。入学したものの賄い征伐という事件に巻き込まれ原敬や福本日南などとともに退学している。結局、どこの学校もまともに卒業できず、弘前に戻ってくる。頭がいいのにプライドが邪魔するのか、このあたりの我慢のなさは笹森儀助にも共通する。23歳になった羯南は「青森新聞社」の編集長になり、ようやく天職に巡り会う。
羯南の顔写真をみると、典型的な津軽の男衆の顔である。津軽の男衆の顔は2通りあり、顔が長く、のっぺりした顔と、もう一方は目が二重でぱっちりしたかわいい顔である。両者とも色は白いが、いわゆる伊達男といわれるがっちりした男前の顔ではない。羯南に会ったひとはみな、その目でじっと見られると深い威厳に打たれたとしている。西郷隆盛のような大きくて、ぱっちした目が人を引きつけたのであろう。

2007年3月24日土曜日

Q&A 床矯正はどうなんですか


テレビの番組で床矯正の紹介がありました。一般の先生方でもこの装置を使うところが最近随分増えてきました。床矯正の歴史は非常に古く、100年以上前から使われてきました。1980年頃まで、ヨーロッパは床矯正、アメリカはブラケットと二分化した状況が続いていました。これはヨーロッパでは矯正治療が健康保険に適用できる国が多かったため、比較的安価な床矯正装置が使われてきた歴史があります。日本でもブラケットを使った治療は非常に難しかったため、1970年ころまでは床矯正装置も割合多く使われていましたが、ブラケットの普及に伴い、現時点では矯正専門医で床矯正装置を積極的に使っているところはないと思います。
使わない理由は、後戻りが多いからです。上あごについては、17,8歳ころまでは正中口蓋縫合という上あごを左右に分割する縫合がまだ十分にひっついていないので、強い力で上あごを広げるとここの縫合が広がり、2,3か月で骨ができます。床矯正よりもっとがっちりした装置が使われ、予後も安定しています(毎日0.2mmくらい広げます。急速拡大)。ただ下あごのついては真ん中の縫合が生後すぐにひっついてしまい、このような方法ができません。ねじなどで広げると主として歯が移動します(多少骨も移動しますが)。下あごの糸切り歯と糸切り歯の幅は変化を加えることは難しく、広げると戻ります。これは舌と口唇の圧との平衡関係と関係します。現在よく使われるねじを使った床矯正装置はシュワルツの装置と呼ばれ、1930か40年ころのものです。その後、口唇からの圧を排除して後戻りを防ぐ、フレンケルという装置が脚光を浴びましたが、装置が複雑で最近はあまり使われなくなりました。下あごを手術で左右に割り、ねじで急速に広げてそこの部分に骨を作る方法も最近発表されています。
上あごは横に広げることができるが、下あごは非常に難しいというのが結論です。実際、でこぼこのケースでは上下とも広げる必要があるため、あまり拡大装置は使いません(上あごだけが狭いケースは積極的に広げますが)。
あまり過激で好きなHPではありませんが、http://www.kameido-kyousei.com/six/index.htmに無理して拡大された悲惨な症例が載っています。床矯正装置で拡大できるの下あごで2-4mmがいっぱいでしょう。

2007年3月22日木曜日

Q&A 矯正治療は痛いのですか。



患者さんからよくある質問について説明します。
矯正装置を入れるとかなり痛いと聞くが、だいじょうぶかという質問がよくあります。大体一週間くらいでおさまりますと答えてきます。かなり前の論文ですが、東北大学歯学部名誉教授の坂本敏彦先生の論文を紹介します。

矯正装置(マルチブラケット装置)を入れた患者さんでは95.2%のひとで痛みを感じ、軽い痛みは26.2%、強い痛みは69.1%であった。装置装着直後に痛みがあったものが8.8%、2時間後にはさらに31.3%、夜までに41.3%、翌日になって痛みを感じたものが18.8%であった。強い痛みのあったグループでは平均3.6日、軽い痛みは5.7日、違和感は6.3日で消失した。軽い痛みのグループでは、軽い痛みは3.7日、違和感は4.5日で消失した。食事の時に痛みが強かった。70.2%で平常的な摂食が妨げられ、その期間は2.5日であった。ワイヤーの種類によって違いはなかった。  日本矯正歯科学会雑誌 48(1):59-65,1989

歯が動き出すときには、歯が動く側の歯根膜の中にある神経が圧迫され、痛みを感じるようです。同じ力が続くと神経も次第に麻痺して痛みを感じなくなると思います。痛みの感じやすさはひとにより、男子より女子、神経質なひとほど鋭敏になります。この研究では0.014、0.012インチニッケルチタンという今で考えるとかなり弱いワイヤーを使っています(今では0.016くらいの太さから始めます)。ワイヤーの種類はあまり関係ないようで、全く痛みのない治療は難しいようですが、大体1週間くらいは我慢していただくことになります。あまり強い痛みはワイヤーを弱くしたり、痛み止めの薬を飲むと多少は軽減します。また割り箸などを咬むのもよい方法です。2年間の治療期間のうち大変なのは最初の1週間だけで、その後はワイヤーを換えるたびに違和感があるだけで、すっかり慣れてしましますので、あまり心配はいらないと思います。

2007年3月20日火曜日

本多庸一3


本多庸一の生誕地は弘前市在府町3番地で、弘前大学医学部の校門前の閑静な住宅地にある。今は学生向けのアパートになっている。このあたりは、後に弘前大学教授夫人殺人事件の舞台になったところで、弘前出身のルポライターの鎌田彗さんが「弘前大学教授夫人殺人事件」という本をまとめている。60年前の事件とはいえ、関係者やその子孫もいるため、今読んでもなまなましい。
私は現在、弘前ロータリークラブに所属しているが、日本のロータリーの創始者で、現在でも中国やアジア諸国からの留学生を世話する奨学金制度で有名な米山梅吉も本多と関係が深い。海外留学を目指していた米山は、東京の東京英和学校に入学した。ここで米山は本多と知己を得、渡米後もかの地でも本多と親しくする機会があり、本多に深い尊敬の念をいだくようになった。帰国後、三井銀行に入った米山はあまり本多のところには寄り付かなかったようだ。別にけんかしている訳ではなく、むしろ本多に近づくことで、キリスト教に傾斜することを恐れたのではなかろうか。厳格な武士のような気概をもつ尊敬する本多は、俗人で若い米山からすればかえって近づきにくかったのであろう。本多のことを尊敬していたことは、米山の青山学院へのその後の支援にも現れている。米山は青山学院の附属小学校である緑岡小学校を作ったが、戦争中の疎開先として選んだのは、弘前市である(船沢字蒔苗)。本多のことを思い出したのであろう。
ロータリークラブの創始者ポール・ハリスの中に米山は武士の姿を見たようで、それは尊敬する本多の奉仕の精神とも関わり、その運動に強く共鳴したのであろう。
竹内宏文著「点描米山梅吉 日本ロータリークラブと信託業の創始者」(新風舎文庫)および弘前市教育委員会編「中学生のための弘前人物志」を参考にした。

2007年3月18日日曜日

本多庸一2


キリスト教徒となった本多は地元に帰り、東奥義塾の塾長となった。そして北の果ての地に高度な教育、特に英語教育を実践させるには優れた教師を招聘する必要があるとし、宣教師のジョン・イングを破格の待遇で招いた。イングの弘前での住まいは、現在東奥義塾外人教師館として弘前市立観光館にあるが、当時の田舎の建物としては別格の豪華のものである。本多らの意気込みが感じられる。イングもその期待に答え、珍田、一戸、佐藤愛麿などの優秀な人材を輩出した。また青森県に初めてリンゴを紹介した人物としても知られる。
本多は教育と伝道に明け暮れるかかわら、自由民権運動にも加わり、青森県の県会議員や、議長なども努めた。このままいけば名士であった本多は中央の政治の舞台に行っていたであろう。39歳になった本多は初めてアメリカに留学した。そこで奇跡的な霊的体験をした本多は政治家を諦め、神の道に歩むことを決心し、ニュージャージーのドールー神学校で本格的な神学の勉強をする。
帰国後、東京英和学校(のちの青山学院)に勤務し、その後学院長を努めた。青山学院の初代院長はMaclay(1883-1887)であるが、二代院長本多は1890-1907という17年の長きにわたり院長を努め、慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信、同志社の新島襄の相当する実質的な創設者である。青山学院と弘前の関係は深く、第六代阿部義宗、第7代笹森順造らも弘前出身である。すべて本多の教え子である。ちなみに珍田捨巳も外務省に入る前にここの英語の教師であった。
日露戦争に折には、桂首相やおそらく外務次官の珍田らの依頼により欧米各国を訪れ、日本の立場を説明した。明治40年、青山学院を辞任した本多は日本メソジスト教会の監督として日本各地をまわり伝道を行い、明治45年にチフスにかかり亡くなった。
武士の魂をもったきびしい教育者であり、伝道師であった。その精神は現在でも青山学院の中に残っていると思う。

2007年3月16日金曜日

インビザライン2


左図はルイジアナ州立大学のジャック シェリダン先生が開発したエシックスと呼ばれるものです。先週、大阪で日本でのこの装置の紹介者の宮井先生の講習会を受けました。矯正治療後の保定には大変いい装置と思えます。講義の中では、ちょっとしたでこぼこにこの装置に小さなこぶをつけて直す方法が紹介されていました。症例を選べば十分可能な治療法です。早速、必要な器材を注文しました。最近は新製品にはすぐには手を出さず、10年ほどしてから患者さんに使うようにしています。多くの商品はその間に姿を消し、本当に使えるものだけが残ります。エシックスもメリット、デメリットを十分に説明した上で使っていきたいと思います。
クインテッセンスという歯科の雑誌にインビザラインの論文のサマリーがありましたのえ、孫引きですが、紹介します。

Dleu G.ら : A outcome assessment of invisalign and traditional orthodontic treatment compared with the Amerecan Board of Orthodontics objective granding system, Am,J. Orthod. 2005.128:292-298
インビザラインの治療結果は通常のマルチブラケット装置による治療結果より劣る

Lagravere Moら:The effects of invisalign orthodontic aligners:a systematic review,J.Am.Dent.Assoc.2005.136:1724-1729
51名の矯正患者にインビザライン使用し、完全に使用できたものは15名(脱落率71%)。使用できない理由は、矯正医により装置の不一致と判断されたもの23名(適用が間違っていた)、次のアライナーに進行拒否3名、Align Technology社の矯正医により再スタートの勧告を受けたものは10名であった(やりなおし)。簡単な症例ほど脱落は低く、難しい症例は脱落が高い。

予想通りの結果である。

2007年3月15日木曜日

インビザライン1


ここ数年、最も話題になっているのが、このインビザラインで、コンタクトレンズのような見えない矯正装置と騒がれています。お口の型をとり、それをアライン社というアメリカの会社に送ると、コンピューター上に模型の三次元データを取り込み、きれいな歯ならびになるまでを数十ステップにわけて、左の写真のようなそれぞれのマウスガードのようなものを作ります。歯医者に行くと、1か月分2セットのこのインビザラインを渡され使用します。だいたい2年くらいで治療が終了するというものです。透明なもので外からはほとんどわかりません。
この原理は本当に古くて、すでに60年前からポジショナーとよばれるものがありました。これは上下一体型のもので、咬み込むことで、歯を動かすものでした。材質も色々なものが開発され、日本ではダイナミックポジショナーというものや、トゥースポジショナーというものがありました。さらにエシックスという上下別々のものもあります。咬む力、あるいは材質自体の力で歯を動かすもので、主として矯正治療後の保定やあるいは後戻りの治療、仕上げなどに使われています。
アライン社はこの原理をコンピューターを使い、細かいステップに分けて歯を動かしているだけで材質自体にそれほど進歩があるわけではありません。
この装置に一番の問題点は、基本的には終日、20時間以上装着しないといけない点です。上記、トゥースポジショナーを仕上げのために2、3か月使う場合でも脱落者は割合多く、終日2年間、48セットのインビザラインを使うのはかなり大変です。ある報告では脱落率が50%とされています。また適用もかなり限られていて、抜歯ケースは今のところインビザラインだけでは治療はできません。簡単なでこぼこなどが適用と思われまし、このような症例では通常の治療では容易に短期間で治療できます。
また技工代も高く、一式確か15-20万円かかると思います。矯正専門医では脱落率の高さから、当然通常のブラケットによる治療も想定するため、費用もこの技工料を足したものになると思います。
患者が取り外しできるこういった装置は、治らない原因を患者のせいにされるため、歯科医によっては料金だけとり、治らないのはあなたが使わないからと逃げられる恐れがあります。また歯科医は基本的には型を取るだけで、あとは患者が来るたびに装置を渡すだけなので、矯正の知識が全くなくても治療ができる恐れもあります。そのためアライン社も基本的には矯正専門医を対象にしているようですが、実際には難しいでしょう。
日本人の症例はアメリカ人に比べてずっと難しいケースが多く、インビザラインも話題性の割にはそれほど普及しないと思います。

2007年3月14日水曜日

本多庸一1


本多庸一(1848-1912)は、内村鑑三らとともに明治を代表するキリスト教指導者である。友人の押川方義は本多のことを「彼はキリスト教化された武士といわれるが、むしろ武士道化されたクリスチャンである」としている。
津軽藩 本多東作の長男として、弘前市在府町3番地で生まれた。名の通り徳川家康譜代の武士の流れをくみ、その祖先は家康の養女満天姫の輿入れとともに弘前にやってきた。父は300石の禄を食む上級武士で、庸一も幼いころから大変頭の良い子で、将来を期待されていた。幕末には津軽藩も勤王派と佐幕派に分かれ、激しい争いがあったが、庸一は当然佐幕派の一員として活動した。土壇場になって津軽藩は勤王派になったため、庸一は死を覚悟して脱藩したが、その才を惜しまれ、罪を許された。
明治3年には藩の命令で横浜に英語を学びにいった。ここでは庸一は宣教師ブラウン婦人の塾に入った。当然、英語の習得を目的としており、キリスト教には関心はなかった。ブラウン婦人の人格や生活規範に触れるようになると、次第にその母体になるキリスト教にも興味をもつようになり、明治5年に洗礼を受け、信者になった。武士からキリスト教徒への転身である。
かって太平洋戦争後に多くの軍人は熱心なキリスト教徒になった。例えば真珠湾攻撃の航空隊指揮官の淵田中佐は戦後、熱心なキリスト教徒となり生涯を捧げた。死を覚悟した軍人や武士が偶然生還した場合、キリスト教というのは魂を虜にする磁性をもっているのかもしれない。本多の場合、明治維新による武士階級の崩壊も原因だったかもしれない。
切支丹禁止令がとかれたのは明治6年であると思うと、本多の入信は親のみならず、津軽の人たちにも相当ショックであったろうし、本多自身も勇気がいっただろう。
後に津軽の名物として牧師が挙げられるほど、多くの牧師を輩出した。「キリスト教はいかんが、本多の耶蘇教ならいい」、「本多の耶蘇なら本物だろう」といって、多くの信者が生まれたというエピソードがある。

2007年3月13日火曜日

今和次郎3



今和次郎の珍しい正装姿である。今のイメージはいつもジャンバーにジーパンという感じだが、若いころは凛々しい。今の最も有名な仕事は考現学である。考古学というのが、過去の遺物を発掘して、それをもと過去の生活を類推するものに対して、今の考現学は現在の資料を科学的、さらには統計的に集めて現在の生活を浮き彫りにさせるものである。柳田邦男らの民俗学者らからすれば随分世俗的で皮相的なもの写ったと思える。それ故、民家の研究で一緒に仕事していた柳田からは後に絶縁される(あくまで本人の言からではあるが)。銀座を歩く女の人の服装、昼寝のポーズ、犬小屋の研究、男のほしいものの値段やさらには立ち小便の場所などなんでも調べていた。
こんなものを調べていて何の役に立つのかと当時も言われていたろうし、現在でも官学の学者から見れば学問とは思われないかもしれない。ただ、今日の我々から見ると、昭和初期の東京の状況がよくわかり、実に興味深い。確かに当時の写真や映画も残ってはいるが、普通の人々がどんなことに興味があり、習慣、流行していたかなどがはっきりわかる。データーの採取は科学的な方法で行われていたため、現在の状況と定点的な比較もできる。今らの仕事は、民俗学の梅棹忠夫や社会福祉学の一番ヶ瀬康子らに受け継がれ、生活学となっている。新たな学問としての考現学は今後ますます脚光が浴びていくと思われる。
今のおじさんに当たる今裕は北海道大学の総長をしていたが、このひとは北大の名物総長で、学生にも慕われていたという。戦争中で英語が禁止されていた時代に平気で、学生にもっと英語の勉強をするようにといっていたという。ヒポクラテス全集の本邦初訳も手がけた。
今和次郎と今裕の写真を並べると、確かに親類で、よく似ている。

2007年3月8日木曜日

ブラケット8(リンガルブラケット)




外から見えないリンガルブラケットについては私は使っていませんので、あまりよく知りません。
このブラケットの発展には4人の日本人が大きく関与しています。まずブラケットと歯との接着剤を開発した三浦不二夫先生がいます。三浦先生がいなければこのブラケットはあり得なかったと思います。1978年という早い時期に神奈川歯科大学の藤田欣也先生が世界で初めてリンガルブラケットを発明しました。ただその直後にKurz先生のリンガルブラケット(写真 上)がオームコ社から出たため、それが世界初と誤解されているようです。現在、欧米ではこのKurz先生のものが主流になっています。私も87,8年ころ2症例ほど大学で隠れてこのブラケットを試しましたが、形が大きく、違和感も高く、また治療期間も長く、1年ほどで外側からの通常のブラケットに変えました。歯は外側に比べて中側はかなり個体差がありため、ブラケットの位置づけを患者さんごとに合わせる必要があります。そこでTARGという大げさな装置を使い位置決めを行い、それをそっくり写して歯にくっつけるというややこしい方法をとります。精度も非常に悪かったと思います。80年代あるいは90年始めまで、リンガルブラケットによる仕上がりは通常のそれに比べるとかなり劣る印象を持ちました。1998年に現在、長野の塩尻で開業されている広俊明先生が、日本矯正歯科学会雑誌に画期的な論文を発表されました。リンガルブラケットを正確に、簡単に位置づける方法です。一読しただけで非常に合理的かつ実用的な方法で、日本ではこの方法がすでにかなり普及していると思います。広先生の功績は大きいと思います。それに比例して最近のリンガルの仕上りもかなり良くなっています。先月も東京で日本臨床矯正歯科医会の例会に出席しましたが、大阪の布川先生のリンガルの症例など、本当にきれいに仕上がっており、今や期間が長い、仕上がりが悪いといったことはないと思いました。さらに最近、東京の竹元京人先生がStbライトリンガルブラケット(写真中)というものをオームコ社から発売しました。かなり小さく、違和感は少ないと思います。まらブラケット間の距離も長くなり、でこぼこをとる期間も減ると思います。またリンガルにセルフライゲーションを利用したものも出ています(写真下)。こればOvationという外側につけるブラケットを中に使ったものです。これなら結紮も簡単でしょう。
このようにリンガルブラケットは日本人に手によって、本当に良くなったきました。それでも口の内側での操作はやりにくく、外側とはかなり違った概念や器具、器材が必要なため私は行っていません。簡単になったとはいえ、正確な技工操作が必要で、技工士を雇うか、技工所に発注する必要があります。また診療時間もかかるため通常の治療に比べてリンガルの治療は治療費が1.5倍くらいになるのはどうしても仕方ないものと思います。

2007年3月7日水曜日

ブラケット7(審美ブラケット)



一方、プラスティックのブラケットについては、70年代から出ているものの、壊れやすく、また変形も多くて、使いものになるものは少ない状態でした。80年代になると強化プラスティックやグラスファイバー製のものもでてきて、多少は壊れにくくはなってきましたが、それでも溝の精度がメタルに比べて低く、またワイヤーを溝に入れて結紮線で強く締めると、材質が柔らかいため溝が変形してしまいます。91,2年ころにオームコ社が溝に金属を利用したスピリットブラケットを発表しました。溝の部分はワイヤーが入るため、別に透明でなくてもよいからです。このことにより、溝の精度は飛躍的に高くなり、溝とワイヤーとの滑りが良くなり、ほぼメタルのものと同じように使えるようになりました。発売当初はシングル幅のものだけを出していましたが、かなりシエアーがあったように思えます。ただやはりツイン幅のブラケットが人気が高く、その後日本のサンキン社から同様なツインブラケット(クリアブラケット 写真 下)が発売されるようになると大分シェアーが奪われましたが(日本では)。現在ではスピリットブラケットはウィングのあるルイスタイプのものになっていますし、ツイン幅のものもでています(写真 上)。一方、サンキン社もこのブラケットに合わせたキャップのようなクリアスナップというものを2年ほど前に発表しました。すべりが格段によくなるため、私も多用していますが、前歯に付けると毎回の調整の度に替えなくてはいけないので、主として糸切り歯を後ろに動かす時に用います。
他のメーカーのものも出ていますが、日本では溝がメタルになったこの2つのブラケットがプラスティックブラケットの主流と思われます。今月号のアメリカ矯正歯科学会誌で今後のブラケットの予測が載っていましたが、プラスティックブラケットはセラミックとのハイブリットになるのではとなっていました。2年間の治療ではやはりプラスティックでは摩耗が起こるため、より硬い材質が求められます。

2007年3月6日火曜日

今和次郎2



今和次郎の生誕地は、弘前市百石町16番地と思われる。川添登「今和次郎 その考現学」(ちくま学芸文庫)では24番地とされているが、ラグノオささき(佐々木菓子店)のHP www.ragueneau.co.jp/company/ragueneau.htmlをみると「和菓子ささき」の3軒隣りで今が生まれたとしている。現在の百石町展示館(写真上)の斜め前の商店(写真下)に当たる。この展示館は青森銀行百石町支店をリフォームされたものだが、人気があり、通年を通じてて市民が利用している。古い建物がこのように市民の生活の中で使われていて、今和次郎も喜んでいることだろう(一日全館借りても6000円くらいと非常に安い)。
弘前市は、雪の多い町で、雪対策にはいつも頭を悩ましているが、今の弟子に当たる吉坂隆正早大教授(1917-1980)が1970には「弘前生活改善計画」、1973年には「弘前市積雪都市計画」を発表しており、今の故郷への思いが弟子を通じて、あるいは間接的に受け継がれている。さらには近年、弘前大学の北原啓司教授によりコンパクトシティー,街なか居住などの新しい試みが行われている。
ジャンバーとズック靴が正装だった今が、晩年勲二等をあげたいと国から言われた時に、モーニングを着ないといけないなら、ジャンバーでももらえる勲四等にしてもらったという逸話がある。何もそこまで意地にならなくてもと思うが、このへんの感覚がじょっぱり青森人ぽい感じがする。

(2011.10.25 追加) 生家は上記に述べたところとは違うようで、反対側、土手町寄りの3軒先の、今のがだれ横町という飲食店の入ったビルのところで、明治二年絵図では大道寺源之進宅あたりのようです。

2007年3月5日月曜日

今和次郎1



今(こん)という名前は青森ではそれほど珍しい名前でない。今和次郎(1888-1973)は、弘前市百石町16番地にて、医師成男、母きよの次男として生まれた.三男の純三は日本における銅版画の先駆者のひとりで、叔父の裕は医者で学士院賞受賞、北海道大学の第四代総長である。時敏小学校から東奥義塾中学校に進学し、その後、東京美術学校図按科(東京芸大デザイン科)に入学した。この頃の今の回想に「少年時代から私は学校というものはきらいであった。教室の机に座っていても、講義している先生の顔をぼんやり見ているだけで、講義そのものは何が何だかわからない」とあり、弘前中学、弘前高校の受験にも失敗し、母親を泣かせたそうだ。両親とともに上京して入った東京美術学校の入学式で「この学校は、何も教える学校ではない。また勉強せよなどとはいわない。大勢入学した人の中から一人か二人天才的な人が出ればよい」との訓示には、勉強嫌いの今にはうれしかっただろう。明治45年には新設された早稲田大学理工科建築学科の助手として採用されたが、実際は「小使でもというのならよろしい。明日からきてもらうか」というものであった。それでも今が優秀だったのか、早稲田大学の懐が深いのか、2年後の26歳には講師、27歳には助教授、32歳には教授となっている。
この頃の研究に、柳田邦男や石黒忠篤らと行った民家の研究がある。建築家であれば、建物の構造に興味があるはずだが、今らしいのは家庭の器具、ひしゃくが何個、どこにあるとか、そんなことまで調べており、それを絵にしている。赤瀬川原平さんの絵のようでおもしろい。また関東大震災後のバラック調査は、すぐに壊される運命の建物を記録に残して点でも現在の目からみれば貴重なものである。
建築学科の教授となれば、西欧を模倣したその分野の研究を求めがちだが、今にとってはそんなことはどうでもよく、誰も顧みないもの、消えいくものに興味を示した。ここにも津軽人の反骨の気概が見える。

2007年3月4日日曜日

寺山修司2



寺山の作品を始めた見たのは、おそらく「田園に死す」や「書を捨てよ、町へ出よう」などの独立系の映画、確かATGの製作、だったと思う。大阪の梅田の映画館に高校生ころに見に行った記憶がある。暗い屋内に、白く化粧された中学生、母と子の切っても切れないどろどろした関係、黒と赤のコントラスト、おどろおどろしい風景、当時の空気まで思い出す。こんな映画や寺山の作品を読んで、青森に対して暗くて、こわそうなイメージを持ったが、実際こちらに住むとそんなことは全くなく、あくまで寺山の誇張した表現にすぎない。寺山が死んですでに24年になるが、いまだに人気が衰えない。とくに若いひとには常に新鮮な印象を与えるようで、この現象は太宰とよく似ている。
弘前は、非常に演劇のさかんなところで、弘前劇場、劇団雪国やそれらを支える弘前市民劇場の活動も知られる。弘前劇場は、1978年創立された劇団で、弘前のみならず東京や海外でも公演する国際的にも知名度の高い劇団である。また弘前市民劇場は約800人からなる演劇鑑賞団体で年に何回かの公演を行っている。またデネガという民間の小さな公演施設もあり、街の至るところで年中色々な演劇が行われている。唐十郎とも関連のある劇団夜行館も毎年、ねぶたに出陣して寺山の世界を現出している(写真下)

弘前は美人の多いところであるが、その割には弘前出身の女優や歌手は意外に少ない。古くは相馬千恵子さん(伊藤大輔「二刀流開眼」などに出演)、長内美奈子さん、奈良岡智子さんや木野花さんくらいで、演劇が盛んなわりには少ない。歌手でもあまり聞かない。むしろ劇作家や作曲、作詞などで活躍している人が多い。近代演劇の父、小山内薫の父玄洋は津軽藩洋医である。「ドラエモン」などの作曲の菊池俊輔、中森明菜デザイアの作曲の鈴木キサブロー、松田聖子青い珊瑚礁、郷ひろみお嫁サンバの作曲の三浦徳子、チューブ「シーズンインダサン」の作詞の亜蘭知子、現代音楽の作品で有名な下山一二三もすべて弘前出身である。演じるよりは書く方が津軽人には向いているのかもしれない。そういった意味では寺山も津軽の作家の系譜につながる。

2007年3月3日土曜日

ブラケット6(審美ブラケット)



三浦先生が歯にブラケットを直接くっつける接着剤を開発した以降(1971)、矯正器材メーカーはこぞって新たな接着剤の研究とブラケットの開発に乗り出しました。80年代になる前には、ほとんどの金属ブラケットは接着剤でつけるものに変わっていき、バンドを巻く昔の方法は急速に廃れました。同時に、目立たない審美ブラケットが多く発表されました。小児歯科にいた当時(1981)頃にも、多くの強化プラスティック製のブラケットが発売されていましたが、どれもすぐに変色したり、壊れたり、さらにはすぐに取れたりして、半年の治療には耐えても、2年間の治療にはとても耐えられないものでした。
ようやく1987年になり、ユニテック社からセラミックでできたトランセンド(上写真)というブラケットが発売されました。接着剤の種類によってはすぐに取れたり、欠けたり、また大きさもかなり大きなものでしたが、さすがにプラスティックとは違い、硬く、一応2年間の治療には耐えることができました。ところがいざ外すとなると、これが外れません。この頃、大学に患者から電話がかかってきました。開業医でこのブラケットを使い、先日、半分を2時間かけて外したが、あまりに痛くて、どうにかならないのかという質問でした。削ってとろうにもバーを何本もだめにする有様です。その後、メーカーは切れ目をあらかじめ入れて外しやすくしたようですが、余りの悪評にしばらく信頼が薄れました。またワイヤーと溝のすべりが悪く、歯が動きにくいという欠点も有していました。
取れないような工夫など、何度か改良を加え、ようやく1996年にクリアティー(下写真)という商品を出しました。金属のスロットにしたため、ワイヤーとのすべりもよく、ようやく金属ブラケットに近いものになりました(値段は3−5倍ですが)。発売して10年になりますが、世界で最も使われているセラミックブラケットです。最近ではTPオルソという会社のInVuという製品も安い割には滑りがよく、よいセラミックブラケットと思います。

2007年3月1日木曜日

ブラケット5(セルフライゲーションブラケット)



左の上のブラケットがactiveタイプの新型のクリッピーC(トミーインターナショナル)です。ばねの部分が金属ですが、比較的見た目には目立ちません。まだ使っていませんので、何とも言えませんが、ややきゃしゃで大きい感じがします。できればシングル幅のもう少し小さいものを今後出してほしいと思います。左下のブラケットはスマートクリップ(ユニテック)というもので、ブラケットの横にクリッブがついていて、ワイヤーをかちっとはめ込むタイプです。取り外しには特殊な器具を使います。かって同様なスマイルというブラケットが15年前にあり、これはプラスティックの留め金でふたをするというものでしたが、ワイヤーを押し込むのに患者さんがかなり痛がっていたことを思い出します。このブラケットもワイヤーの出し入れには少し患者さんは痛いかもしれません。今年には白い審美ブラケットにこのクリップをつけるという情報もあり、発売を期待しています。
アメリカのテンプル大学のEbertingらは、デーモンブラケットを使った症例(108)と通常のブラケットを使った症例(107)の治療期間を比較しました。デーモンでは平均24.5か月、通常のものでは30.9か月で6か月ほど早くなるようです。またイギリスのHarradineの研究によればデーモンでは19.4か月、通常のものでは23.5か月と4か月ほど早いという結果でした。ただこの種の研究は相当にバイアスがかかっている、すなわちデーモンは早いという固定観念があるため、そのままは信用できません。8年ほどエッジロックを使った感想からすれば、通常のブラケットで2年間くらいかかりますが、それより3,4か月早いくらいではと思います。治療の最終段階では前に述べたトルクやしっかり咬ませるといった非常に細かな調整を行います。これをどこまで行うかで撤去の期間はある意味決まってしまいます。なかなか100点満点にするのは難しく、それを達成しようとすれば期間がかかります。そういった点では治療期間が3,4か月早いといっても凝ればあっという間に同じになってしまいます(上の2つの研究にように先生によっても7か月も違います)。
患者にメタルのセルフライゲーションブラケットを使い、3、4か月早くなると言っても、やはり目立たない審美ブラケットを選びます。ただ審美性が同等なものであれば少しでも早いものを選ぶと思います。結紮線を使わないことは歯磨きのしやすさ、操作性などから大変いいことですが、審美性を加味したものがでないと、これまでのブラケット同様、消えていくかもしれません。また最終段階では患者さんのかみ合せに合わせて細かなワイヤー曲げが必要になります。セルフライゲーションブラケットでは少しの曲げで窓が閉まらないので、ワイヤーの曲げを多用する先生にはやや不満があるかもしれません。