2008年2月28日木曜日

阪急電車



阪神間に住む人たちは、阪急電車に何となく、おしゃれで上品なイメージを持っています。大阪ー神戸間には北から阪急電車、JR線、阪神電車はほぼ平行に走るため、比較的裕福な階層が住む北側と工業地帯で労働者の住む南側とでは乗車するひとの服装や会話も違ってきます。私の住んでいたところは阪神尼崎でしたので、普段は大阪に行くのにも、神戸に行くのにも阪神電鉄を利用していましたが、中学、高校の6年間は毎朝バスで塚口まで行き、そこから阪急電車に乗り、六甲まで行っていました。

有川浩著「阪急電車」(幻冬舎)を読みました。題名通りおしゃれな小説になっています。舞台は西宮北口から宝塚までの今津線の8つの駅に関わるさまざまなエピソードが絡まりながら、物語は進んでいきます。いじめられている小学生の凛とした姿に共感し、励ます失恋した女、図書館通いの男女の出会いと愛、ほのぼのとした話のリレーが展開されます。

この本を読んで思い出したことがあります。中学、高校時代、毎朝7時14分塚口発、元町行き普通列車の後ろから2両目の最後の扉が僕たちの定位置でした。この後の電車に乗ると、六甲の長い坂道を走らなくてはいけません。塚口からは私ひとり、武庫之荘、西宮北口など駅が進むにつれ、仲間が増えていき、ワイワイといつも雑談をしながら通学していました。

高校2年生ころだったと思います。ひとりの妖精のような目のくりっとしたかわいい小学生が塚口からいつも一緒に乗るようになりました。某大学の付属小学校の制服を着ていましたが、背が高く、160cmくらいあったでしょうか、小学校の制服が妙にちぐはぐな印象でした。当然小学6年生と高校1年生、当時の感覚からすれば大人と子供です。次の年の春、僕たちもいよいよ高校3年生になり、部活、勉強でいそがしくなりました。彼女はというと、K女子中学に入学して、そのセーラ姿が本当に似合っていました。ある日のことです。いつものように改札口を出てホームを歩いていくと彼女が1本の赤いカーネションを持って立っていました。何だろうと思いましたが、別に気にもかけず、そのままいつもの位置に行き、電車に乗りました。それ以来、彼女は一度も僕たちの定位置にくることはなく、僕たちは卒業しました。

その後、大学6年生の夏休みに帰郷した折に、どういう訳か神戸から阪急で帰ったことがありました。西宮北口で特急から普通の乗り換えて、席についたところ、左一人はさんで隣になんと彼女がいました。すっかり大人になり、その頃流行ったJJファッションに身を包んでいましたが間違いなく彼女です。おそらく大学生になったのでしょう。むこうも気づいたのか、何度も腰を浮かしこちらを見ています。塚口駅に着いたら声を掛けよう、掛けようと勇気を振り絞り、構えていました。ところが、塚口駅に着くやいなや、彼女は僕の前をあっという間に走り去ってしまいました。たったこれだけの話ですが、あの赤いカーネションがいまだに塚口駅の思い出です。

その年の夏に今の家内と知り合い、結婚しました。家内にこの話をすると、よっぽど嫌われていたんじゃないかと言いますし、友人にはストーカに思われたのじゃないかと言われます。おそらくこちらの勝手な思い込みで、彼女はこんなこと全く忘れているのでしょう。ちなみに家内と僕は5歳違いで、僕が高校2年生のころ小学6年生でした。

有川さんの「阪急電車」のような話は実際にはないという話でした。

2008年2月25日月曜日

北欧陶器2




上の写真はGustavsbergで活躍した女性デザイナーKarin BjorquistのTea Rod シリーズのカップと皿です。おいしい紅茶とケーキーをいただくのにいい器と思います。2年ほど前のオークションで1セットを買い、今回もう1セット購入できましたので一応完成です。家内と一緒に老後の朝食のお供にしようと考えた訳ですが、家内にしゃべるとフーンという答えしか返ってきません。私個人としては非常にかわいいデザインと思い、長女にも以前欲しかったらやるよと言っても全く興味はないようです。

こういった大量生産された「プロダクトもの」でも手書きで書かれているため、なんとなく暖かみがあります。微妙に赤のストライプの色やタッチが違っていていい感じです。他にも時折オークションにでるKageのお皿もモダンです。こんなカップと皿でケーキセットがでるカフェはないものでしょうか。結構おしゃれな感じがします。

当院では毎年患者さんを紹介いただいた先生にお中元、お歳暮で何かしら送ります。最初の年は、ノリタケのお皿、次は大倉陶器のモーニングカップ、カガミグラスのグラス、ロイヤルコペンハーゲンのMEGAシリーズの皿、現在はイッタラのオリゴのボウルを送っています。最近は北欧陶器になっています。10年前に一個余ったの大倉陶器のモーニングカップはお気に入りで今でも毎日使っています(写真下)。飲み口が薄く、口当たりが非常にいいのが気に入っています。さすがに皿周りの金箔の縁は薄くなっていますが、カップ自体の縁の金箔は厚く塗っているせいか、剥離していません。こういった長い歴史をもつ商品は飽きがこないし、毎日の実用に適しているように思えます。

茶碗など500円くらいのものでも、毎日使っていても20年以上もつことがあります。結構、壊れないものです。だとしたら、毎日使う茶碗やコーヒカップ、湯のみ茶碗、お箸などは少し贅沢してもいいと思います。といってもあまり高いと使うのがもったいないし、加減が難しいと思います。もう一つ、毎日使っている弁当箱、これは大館の曲げワッパですが、これもすでに10年以上立ちますが、びくともしていません。たいしたものです。

2008年2月24日日曜日

斉藤正午2


左の写真は、零戦落穂ひろい2(http://blog.goo.ne.jp/summer-ochibo/)というブログから引用した斉藤正午が搭乗した97戦である。ノモンハンでの体当たり攻撃で使用した機体を展示している。東京であろうか。多くの人たちが興味深げに見ている。

津軽奇人伝 続(原子昭三著 青森県教育振興会 昭和62年)に斉藤についての記載があるので紹介したい。

斉藤は、若い頃にはずいぶん無茶をしたようで、弘前中学5年生の時に友達と「東京まで一銭も持たずに行けるか」とかけをし、家族には内緒で友人と弘前から徒歩旅行を開始したという。色々なひとに助けられたり、旅行の目的を知ったある学校の校長には見上げた根性だと褒められ、ごちそうになったりしながら、何とか無事に東京まで行けたようだ。またその頃全国的には珍しかったスキーにも熱心で、大変名手だったようだ。

ノモンハンの空中戦の感想として「一番最初に出動した時は、手が震えて全然弾が当たらなかった。それでいろいろと考えた末、遠くから狙って射つより、近くにいって射つのが一番命中すると考えた。その通りやったら実によく命中した」と述べている。

これは多くのエースが述べているのと全く同じで、第二次大戦中の最大の撃墜王、352機を撃墜したドイツのエーリッヒ・ハルトマンも同様なことを言っている。ハルトマンも初陣では興奮のあまり300メートルの距離から射ったが、全く当たらず、結局は燃料切れで不時着するという不名誉なものであった。その後はドッグファイトはさけ、観察ー決定ー攻撃ー離脱の必勝パターンを編み出し、50メートルくらいに近接してから攻撃したようだ(不屈の鉄十字エース 撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生 学研M文庫)。

日本の撃墜王の西沢広議や坂井三郎も同様なことを言っている。ハルトマンの記述では30メートルまで近接するとしているが、よく考えると戦闘機は時速600km、秒速で150m以上進む、相対速度ではそうではないといっても30メートルの距離とは1秒以内の距離であろう。コンマ何秒の間に目標を狙い、銃弾を発射して、離脱するのは、高度な技術とともに、勇気がいるであろう。普通の人ではとてもこの距離まで待てないであろう。斉藤の場合も勇気とともに沈着な冷静さも持ち合わせていたのであろう。

5機以上を撃墜したものをエースという。少数のエースが全撃墜戦果の30-50%を挙げているという報告があるが、エースという一種の特殊能力者にかかれば、通常の飛行士では太刀打ちできないようだ。まさに練達なエースにかかれば初心者などは赤子をひねるようなものであったろう。

自衛隊が導入を検討しているF22Aラプターという戦闘機はステルス性能を持ち、F15,16,18などの現行機との模擬空中戦では「144対0」、すなわち144機撃墜して一機も損害ないという驚異の性能を持つ。ほとんどは相手の見えないうちにミサイルを打って撃墜するというものであったようだ。もしステルス機同士で戦えば、目視による戦いとなり、最新兵器でも結局は搭乗員の能力に依存しそうである。

2008年2月21日木曜日

a-dec 500 5





 歯科用ユニットについては歯科関係者以外あまり興味はないと思いますので、これで終わりにします。

 1週間使ってみての感想ですが、小学校低学年までの子供にはこのユニットは怖いと言います。モリタのスペースラインの方が歯科治療に関連する機械が何もついてなくて、慣れているせいか、前の方がよいとのことです。中学生以降になると。やはり圧倒的に座り心地がよくて、こちらの方がよいとのことです。矯正歯科の場合、エンジンやタービンはあまり使わないので、小さな子供の多いところは椅子だけのスタイルの方がよいのかもしれません。ただ年をとるとライトもないとさすがにきびしく、術者からすればこういった一般歯科のユニットの方が使いやすいのは事実です。またA-decのシリンジは金属製で重量感があり、ぐっと押さないと水がでないことも、慣れないせいか気になります。一方、本体やチップすべて簡単に取り外せて滅菌できるのはいいことだと思います。

 障害者、とくに車椅子の患者さんに対しては、チェアー本体が30度くらいは回転できますので、車椅子からチェアーへの患者さんの移し替えは容易にできます(写真上)。またこれは裏技ですが、ヘッドの部分を裏表逆にしてさし直すと、あら不思議、車椅子のまま治療が可能になります(写真中)。ユニットが載っているアームも300度くらいは回転しますので、十分に車椅子の患者さんにもアクセスできますし、ライトも同様です。さすがにうがい台は90度くらいしか回転しませんので、患者の横にはつけられませんが、助手用のアームは十分にアクセスできます。バキュームに付属のじょうごを付ければうがいも可能でしょう。ただし術者は3時、助手は9時とポジションは逆になり、多少は不便があるでしょう。もちろん私の診療所にはエレベータもないので車椅子の患者さんには全く対応できません。わざわざ車椅子用のユニットを購入しなくても、このユニットではある程度対応できると思います。実際、車椅子の患者さんでも車椅子のまましか治療できないことはそう多くありませんし、頻度も少ないことでしょう。一般歯科では、通常の診療に使えて、なおかつ障害者の治療にも使える方が望ましいと思われます。

 未来の歯科用チェアーがHPに載っていました(写真下)。卵形をしており、できるだけ歯科の機械を患者さんに見えないようにして、恐怖心を減らすというコンセプトのようです。一般診療で言えば、個室ですべての機械を壁面に隠すアメリカ式が、恐怖心を和らげるという点ではいいのかもしれません。ただ日本の場合、数台のユニットを歯医者が掛け持ちして治療するというスタイルがとられているため、自費専門の歯科医院以外、こういったスタイルはなかなかとりにくと思います。アメリカ人からみれば、歯科医ひとりが何台ものユニットを掛け持ちするというのは信じられないようですが、日本の保険制度ではある程度数をこなさないと経営できないというジレンマがあります。日本の医療は元々の診療費自体がアメリカの数分の一しかない上、実際の窓口支払いはその3割と患者さんの負担はさらに低くなっています。いや日本でも医療費は高いという人も多いと思いますが、アメリカの自己破産の多くは医療費によるという事実と比較すると、日本の保険制度は高度な治療内容の割にはかなり恵まれています。昨日のNHKの番組でも、アメリカで子供の盲腸の手術のために5000万円の借金を背負ったというケースが紹介されていました。金がなければ治療をしてもらえません。歯科にいたっては民間の保険のカバーされていないこともあり、はっきりいってある程度金がなければ、おいそれと治療を受けることはできません。このような患者サービスと同様なものを保険治療に求めるのは、実際には難しいと思えます。ただ最近では、歯科医も過剰気味で、競争を勝ち抜くためかなり設備投資やサービスの向上を図っているところもあり、待ち時間も減り、患者さんにとってはいい時代になってきたのかもしれません。

2008年2月18日月曜日

A-dec 500 4




今回、ユニットを購入するにあたり、海外の色々な診療室をHPで調べました。アメリカの多くの診療所は、ユニットは壁側にあるキャビネットに組み込まれています。口をゆすぐボウルなどはついておらず、チェアーのみといった診療室も多いようです。患者さんが診療室に入ると、椅子とライト(これも天井取り付けが多い)以外の歯科器具が見えないようになっています。チェアーに座ると、後ろのキャビネットに隠されているタービンやエンジンを使って治療するわけです。恐怖心をとるため、できるだけ歯科器具を患者に見せないように配慮されています。また口をすすぐボウルはないところが多いようです。患者さんも治療終了後あまり口をすすがないのかもしれません。また口をすすぐボウルをチェアーにつけないことで、感染源を遠ざけることも狙ったのでしょう。多くの診療所ではユニットごとに大きな個室で分かれており、完全にプライバシーが保たれるようになっています。ただ矯正歯科の診療所は、子供が多いせいか、広い診療室に何台ものユニットを並べたオープンスタイルをとっているところが多く、またチェアーもベットのような単純なものを使っているようです。

これに対してヨーロッパでは日本のようなチエアーにエンジン、タービン、ライトなどがついているユニットが使われるようです。そのため、ヨーロッパのユニットメーカー、シーメンス、カボ、プランメカなども一体型のものが基本です。これにはおそらく保険制度の違いも反映されているかもしれません。ヨーロッパや日本では基本的には保険治療が中心ですが、アメリカでは自費治療が基本となります。そのため患者へのサービスの度合いが違うのではないでしょうか。数多くの患者を安価で見るためには、回転をよくするためオープンスタイルの方が効率がよいと思います。

A-decのユニットの取り付けはかなり選択肢が広いようですし、またキャビネットも種類が多いようです。エーデントのひとに聞くと、このキャビネットがすごいもので、かなり重い鉄板や圧縮材が使われているため、絶対に壊れないとのことです。ただ色の指定やくみ合わせが異なるため、ほぼオーダーメイドで、注文から納入まで半年かかるようです。これで揃えるとかなりかっこういい診療室が出来上がりますが、今の日本の建築法では時間的にきびしいのでは。

ちなみにA-dec 500の値段ですが、プランメカよりやや高く、シーメンス、カボの中級機よりは安いといったところです。PerformerやDecadeの機種は日本メーカと同じくらいです。数年後にはDecadeにかわる機種もでる可能性もあり、価格的にも十分に欧州、日本のメーカと対抗できると思います。

2008年2月16日土曜日

a-dec 500 3




今回のユニット購入を契機に、当院もIT化を進めようと考えています。その手始めとして、モリタの「ペンスコープ」という口腔内カメラを同時に購入しました。当初はフランスのSOPROというメーカーのものがA-decのオプションだったので購入を検討しましたが、日本では未発売のためあきらめました(その後、白水貿易で扱うことになりました、ただ値段が高く717というモデルは80万円近くします)。

モニターも17インチのものを考えていましたが、シャープのマルチメディアタイプの17インチモニターが生産中止になったため、これもしかたなく15インチにしました(15インチも近く生産中止とのことです)。モニターと口腔内カメラは、USBでつながれているものが多いようですが、カメラからコンピューター、そこからモニターへのラインが長過ぎます。口腔内カメラの像は患者説明用で、その場で見れればいいわけで、あえて記録する必要もなく、わざわざコンピューターを通す必要は感じられません。すべて消去でOKです。

ところがこのペンスコープーは卓上に置くタイプなので、ユニットに組み込むのにひどく苦労しました。当初はユニット内部にコントロールボックスを置こうとしましたが、写真中のようにボックスが大きく、高さもあり、入りません。またパワーボタンも本体にはありません。仕方なく、チェアー横のアームにマジックテープでくくりつける方法をとりましたが、これも格好が悪いようです。一応、助手用のホルダーに差し込むようにエーデントのひとに加工してもらいましたが(写真上)、ペンスコープ本体が変な形をしているため差し込みをうまくしないとすぐ抜けてしまします。通常のテーパのついた円筒形にすれば何も問題ないのですが。ペンスコープ附属のマグネットハンガーを加工してユニットホルダーにつくようにエーデントのひとに今やってもらっています。

画像もいまいちで、特に売りのブルーモード画像は暗くて見えませんし、通常撮影画像もいまいち描写がクリアでありません。最近、ソニーの最新のサイバーショットを3.5万円くらいで買いましたが、その性能に驚きました。それの7倍くらいの価格でこの性能にはがっかりです。十分、調査しなかったことが悔やまれます。また撮影モードも手を固定して動かないようにしないと、かなりブレた画像しか撮れません。カメラの原理からすれば光源を強くして、よいレンズで、被写体深度を深くして、シャッター速度を早くすればきれいに画像がとれるはずです。画素数も41万しかなく、前出のサイバーショットは810万画素です。またモニターアームは360度回転するため、隣のチェアーも併用できますが(写真下)、ペンスコープのラインが短く、使えません。

医療用の機材は薬事法の関係で許認可に相当金がかかるため、高くなるのはわかります。ただ他の電子医療機器をみても、機器自体が発売された時点で、市販機器の性能と相当開きがあり、コンピュータのOSもかなり古いものが使われていることがあります。そのため数年もすればパーツの供給が全くできなく、故障即買い替えの状況になります。困ったものです。歯科以上の電子機器化が進んでいる医科の方では深刻な問題です。

日本でのA-dec500ユニットのエンジンおよびタービンはナカニシです。今回は新しく出たチタンのものを入れました。今やナカニシも世界のナカニシで、米軍の商品の評価テストでも好評を得ているようです(https://dis.nhgl.med.navy.mil/3QTR07/PRODUCTEVALUATIONS/nsk%20timax.htm)。かなり長期間使用してもパワーおよび光源は落ちないようです。昔のイメージとは違い、かなり良くなっています。実際多くの日本のユニットメーカにもOEM出荷しているようです。

ユニット本体からコンピュータへのケーブルを引きましたので、今年はアップルのI-Macとバックアップ用Time Capsulおよび歯科用カメラを買う予定です。定期検査時の口腔内写真や口腔衛生指導用の動画などをお見せすることができそうです。

A-dec500ユニットについての詳細な情報はa-decのホームページで、またhttp://www.a-dec.com/html/Products/seating/Adec500.aspの画面下「Lean more about the benefits of A-dec 500」をクリックすれば、遅いのですが、動画説明が見られます。興味のあるひとは見てください。

2008年2月15日金曜日

a-dec 500 2





 今日は従業員への操作の説明と実際の治療上の問題点を見るため、わざわざエーデントの人が当地に2泊もして残っていただきました。また1台の購入にも関わらず、東京から社長も来ていただき、恐縮しています。本当にお世話になりました。

 本日は実際に患者に座ってもらいましたが、感想を聞くと皆様あまりの座り心地にびっくりしていました。おそらく帰ってからも家で話題になったと思います。通常の体感では話題にも上らないのが普通ですが、それ以上の感動があって、はじめて話題になると思います。おそらくA-dec 500の座り心地もそれに類するものでしょう。

 私がこの機種に決めたもう一つの理由は、タービン、エンジン、シリンジ、うがい給水すべての水の供給をユニットに付属したボトルル(写真下)から行えることです。ユニット内の水質については、バイオフィルムができて汚染されているとの報告もあります。先月も念のため診療室の水について水質調査しましたが、全く安全でした。ただユニット内部の水についてはさらに注意しなければいけません。また当院の場合、水を一階からポンプでくみ上げる方法をとっているため、水圧が低く、安定しない悩みがありました。あまり使いませんが、タービンの水量が安定しません。その点、A-DECのとっているボトルを使った水供給システムではICXという洗浄剤を使うことで完全にユニット内の汚染を簡単に防ぐことができます。バイオフィルムに対する効果についても多くの論文で証明されています。現在のところ最も完成した歯科ユニット水質管理システムと言えると思います。またユニットに使う水の水圧を一定にすることもでき、タービンやエンジンの寿命を延ばすことができるかもしれません。問題としてはボトルに容量が以前(1L)に比べて大きくなった(2L)とはいえ、一般歯科では頻回の交換が必要なことでしょう。

 青森のような寒いところでは水道管の凍結がおこります。そのため2月の寒い時期には元栓を止める必要があります。朝、元栓を開けると、水道管の赤さびのようなものが出ることがあり、診療前に十分に水を出す必要がありますが、さびの一部がタービン内部に溜まり、故障の原因になる可能性もあります。これまで2度も水道が凍結して午前中休診したことがありますが、A-DECのシステムではこのような問題についても完全に対処できます。電気さえ通っていれば診療できます。災害時のライフラインの復旧順序は、電気、水道、ガスの順番になります。万一、地震や台風などの災害があっても最も早く対応できるでしょう。

 エーデントの社長や従業員と話していると、自社の取り扱っているA-decのユニットに強い誇りと自信をもっています。どのような商売、診療所においても、従業員が自分の会社の商品や治療について誇りと自信を持つのは大変大事と思われますし、客や患者から好ましく思われます。親類の子供が今春ある自動車メーカーに勤務することになりましたが、是非とも自分の勤務する会社の車を愛してほしいし、それを売るなら自信も持って売ってもらいたいと思いました。

2008年2月14日木曜日

A-dec 500 1




 昨日、今日と東京のエーデントの人がやってきてユニットの取り付けを行いました。遠方からわざわざ、それも吹雪の最中に弘前まで来ていただき、本当にありがとうございました。

 実は2年前に患者さん、それも小学1年生の子供から、「この椅子汚い」と言われました。開業からすでに12年にもなり、知らないうちに歯科用ユニットも相当に汚くなっていたのでしょう。子供は遠慮なく、真実を言いますので、ショックを受けました。何とか早くユニットを交換しなくてはと思っていましたが、昨年は筋電図を至急購入する必要があったため、ユニットの購入は今年度になりました。おかげてここ1年ほどじっくりとユニットの勉強ができました。

 A-decという会社はアメリカのオレゴン州に本社のある会社で、日本での輸入元はエーデントという会社です。アメリカの歯科用ユニットの80%以上、世界でも50%以上のシェアーをもつ、世界を代表するユニットメーカーですが、どういう訳か日本ではほとんど売れず、歯科医師仲間でもほとんど知られていません。おそらく日本でのシェアーは1%以下と思われます。

 この会社の商品は、Performer,Radius,a-dec500の3機種で、Radiusは15年前から、Performerは10年前から、一番新しいA-500にしても5年前に開発されたもので、毎年新しいユニットを売り出す、日本のメーカーとは全く概念が違います。基本のスタイルは継承しながら、トラブルや操作性は大学などで実際に使った上で改修して、製品を完成していくようです。ほとんどすべてのパーツは市販され、30年間は保存しているようです。またアメリカではA-decの機種が標準になっているため、多くのサードパーティーの会社が部品を安価で供給しています。

 まず写真上、中のような重いフレームがあり、それに様々なパーツを足していきます。空気圧ですべて動くため、非常にシンプルな構造でありながら、実にスムーズな動作を行います。またユニット本体(写真下)をみてもほとんどスカスカの状態で、最近流行の電子部品もあまり使われていません。フレームには2本の大きな回転軸があり、それにごっついマウントをつける構造になっています。そのため2本のマウントおよびフレーム本体も簡単に自由に回転することができます。何しろごつい感じがします。モニター台にしても9kgの過重まで大丈夫なようにできています(20から22インチモニターでも本体重量は6kgほどです)。

 わたしがこのユニットを選んだ最大の理由は、その座り心地です。ほとんど家にあるソファーと同じ気持ちよさで、まさにユニットのロールスロイス級(いいすぎかキャデラック級)と言えると思います。とくにSewnタイプのものはすごいです。背もたれの部分は非常に薄いのですが、ウイングの部分に弾力性があり、座り心地を高めています。色は30種類の中から選ぶことができましたが、Vintageという渋めを選びました。

 a-decのユニットと日本のユニットを比較すると、第二次世界大戦期のグラマンと零戦をイメージしてしまいます。グラマンはF4ワイルドキャット、F6ヘルキャット、F8ベアキャットのラインで戦いましたが、共通しているのは余裕のある設計で、防弾装備の充実、大馬力エンジンの搭載でした。多少リベットがむき出しでもおかまいなしでした。一方、零戦はできるだけ無駄をそぎおとす設計のため、性能は優れてはいたものの、防弾装備は皆無で、コクピットも狭く、機能の拡張もキャパが少ないためあまりできませんでした。リベットも空気抵抗を減らすため沈頭鋲の採用などを行いました。同様にドイツはMe109とFw190で、イギリスはほぼスピットファイアーで戦いました。いずれも設計の基本に拡張性があったからできたことでしょうし、製品開発に対する欧米人の基本的な考えが踏襲されたのでしょう。歯科ユニットについても同様な基本設計概念の差を感じられます。

2008年2月10日日曜日

珍田捨巳 8



日本の男子のうち、日露戦争の軍神広瀬武夫少佐ほど、老若男女、もてたひとはいない。彼自身は、硬派で遊郭に行くこともなく、女性との接触はほとんどなかったようだが、旅順港の行為を抜きにしても、その人柄、生き様は好感がもたれたようだ。

珍田捨巳と広瀬少佐の接触は、ロシア領事館でのことである。珍田は、明治33年11月に小村寿太郎の後任としてロシア特命全権公使としてロシアに赴任する。この時に、海軍の派遣留学生をへて駐在していた広瀬武夫少佐が領事館にいた。また陸軍派遣留学生として田中義一(後の首相)や加藤寛治大佐(後の海軍大将)なども一緒にいた。

広瀬少佐の珍田の人物評として「彼は、この年45歳、津軽の人である。小村のように機鋒鋭くはない。しかし明敏な頭脳で、なかなか洒脱である。円満居士というあだ名があるようで、東北なまりで結構実務をしかるべくさばく人である」としている。なかなか的を得た評価であり、後の外務大臣の松岡洋右も珍田について同じような人物評をしている。

広瀬武夫は東京の攻玉社を卒業後に、士官学校に行った。この攻玉社の創立者のひとりで、森鴎外の渋江抽斎にも登場する藤田潜という津軽人がいて、広瀬の在学時には校長をしていた。またこの藤田の次男が後に海軍大将、終戦時の侍従長の藤田尚徳である。藤田尚徳の嫁寿子は広瀬武夫の弟婦人と従姉妹同士であったようだ。そのように広瀬にとっての津軽人は藤田校長であり、珍田であった。珍田と藤田潜は津軽藩の藩校稽古館で英語を学んだ同窓生で友人であった。

広瀬は柔道の達人で、ロシアにいた時も暴漢を得意の柔道で投げ倒すようなこともあった。正義感の強い好男子として珍田の目に写ったのであろう。後に珍田婦人いはは広瀬のことを「わたしたちは、広瀬さんの自由闊達な姿をとても好ましく感じました。主人とよく息子のひとりは、是非広瀬くんのような海軍士官にしたいものですと語りあったものです」としている。よほど印象がよかったのであろう。

ちなみに東京の攻玉社は、海軍士官学校の予備校的な学校で、戦前の海軍将軍の半分をこの学校の卒業生が占めていたと言われており、wikipediaを見ても、すごい人物が卒業生にいる。中には、共産主義者の片山潜もいておもしろい。現在では、それほど有名ではないが、攻玉社中学、高校として残っている。日本でも古くて、伝統のある学校である。同様に日本学園中学、高校はもっとすごく、吉田茂はじめ、政官財の錚々たる顔ぶれである。戦前の伝統校が凋落した例だが、戦後それまでの教育方針を否定したところから凋落がはじまったのかもしれない。

2008年2月7日木曜日

珍田捨巳 7





 珍田と一戸は、義塾の同級生で、その友情は終世変わらなかった。明治38年1月の戦勝記念パーティーで一戸は珍田に次のように語っている。「やあ辰ちゃん(珍田の幼名)。ありがとう。おかげさまで、無駄な血を流さず済んだ。旅順では毎日たまげるほど兵隊が死んで慚愧にたえなかった。陥落しても、またまた決戦の連続で、なんぼいいところでストップかけてくれたことだが」。本音であろう。同時に外務次官と陸軍将軍が戦争について共通の認識をしていたことがわかる。太平洋戦争時の状況とは対照的である。

 また大正9年(1920),11月3日の青森県修交会主催の珍田伯歓迎会が開かれたが、その挨拶で一戸は「珍田の辰ちゃんは洟垂れ小僧でした。着物の袖口でいつも拭くもんだから、ボロボロになっていたもんだ。鼻がいつも詰まっていたせいか、鼻にかかった発言が英語にピッタリで、これが今日の珍田伯爵をつくったのであります。以上終わり」と言って敬礼した。それに対して珍田は「兵さんはトイレが長くて義塾では有名でありました。このような個室で兵学を密かに研究されたことが、現在の一戸将軍をつくったのであります」とユーモラスに答えている。この会には当時の著名な青森出身者が参加しており、外崎覚(宮内省勤務、中里町)、菊池良一(九郎長男、衆議院議員)、山田純三郎、鎌田彦一(日大三高理事長)、東海勇蔵(海軍造船少将、弘前)、中村良三(海軍大将、弘前)、今武平(今東光の父)、松井禮七(歯科医、黒石、兄宇野海作は山田純三郎と東亜同文書院で同級)、櫛引弓人など多彩な人物が集まっている。

 奉天会戦直後の珍田と山県のけんかの話が残っている。「ロシアはまだ本国に兵力を保有しているが、我が軍はこれが精一杯の兵力である。ロシアはまだ将校が欠乏していないが、我が軍は将校の補充ができないほど消耗している」と珍田が窮状を訴え、講和を切望する内容の要望書を御前会議に示し、それを記録した。ところが元勲である山県は軍の弱音をはくような文章だと激怒し、珍田を呼びつけ、「きみのこの記録は実にひどいものだ。書き直したまえ」と叱咤した。これに対して珍田も腹にすえかね「たとえ元老であっても、御前会議の内容を曲筆せよとは非常識もはなはだしい。とんでもない話だ。」と言いかえし、その足で伊藤博文の家に行き、事の次第を述べた。「わたしの筆記のどこがわるいのでしょうか」と尋ねると、伊藤も憤然として、卓を叩き「彼らはまだ、そんな戯れ言を言っているのか、きみの筆記はすべて正しい。山県の方が無理横暴だ」と言って、珍田の態度を称賛した。のちに山県公も自分の不明を恥じて、珍田をかえって深く信頼するようになったという。

司馬遼太郎も明治と昭和の日本人の違いを「坂の上の雲」はじめ多くの小説でくりかえし嘆いていた。まったく珍田と一戸、あるいは伊藤らとの会話を見ていても、その通りで、日露戦争と太平洋戦争ではこれでも同じ日本人かと思うほど政治家、軍人の資質が違う。よほど明治期の人物の方は常識人でなおかつ度量も深く、ユーモアもある。日露戦争後のわずか30年で、日本人がこれほど変質を遂げるとは、単に士官学校などの教育のシステムの問題だけではなさそうである。

2008年2月3日日曜日

新町坂



















天気がよいので、図書館に行った帰りに新町坂(あらまちさか)に寄ってきました。冬の岩木山が眼前に広がっていました。岩木山は四季折々の姿を見せ、春のやさしい姿とはまた違った険しい表情を見せています。お城が海抜50mの丘に建設されたため、弘前は城のある丘陵地帯を上町、低地地帯を下町と呼び、何カ所かの坂によって結ばれていました。この坂はそのうちのひとつで、藩政期の場所から明治期に移したところですが、藩政初期の最も重要な道であったようです。城西地区からS状の坂が続き、結構急な坂になっています。荷物の運搬やねぷたの移動には難儀したでしょう。

この坂を登ったところに、かって小説家の石坂洋次郎の家がありました。生まれたのは代官町の方ですが、学生時代までこの坂に上の地区、塩分町(しおわけちょう)33番地に住んでいました。毎日、ここからの岩木山を眺めていたのでしょう。石坂洋次郎の故郷の原点となる風景だったと思います。

「壁画」という小説の中で、石坂はこの新町坂を次のように描いています。「長い、勾配の急なS坂は、まんなかほどで鋭角のカーブをなしていた。曲がり目の崖際にさいかちの見事な老木が聳えて居り、坂を上り下りする馬車曳達に、遠くからこの難所の目印を与えていた。坂の北側は、下り口からカーブのあたりまで人家が疎らに立ち並び、その先は旧招魂堂の丘に続いて、田圃や大川を越して、下町一帯を眼下に見下ろせすようになっていた。(中略)大川が水田の春、夏、冬、秋、冬、その季節季節に多少の装いを変えるが、要するにS坂の展望は、カラリとした、平和な、愛すべきものであり、この道をまれに通行する人々は、必ず坂の中途で足を停めて、一顧の労を惜しまないのであったが、規模が小さく、すぐに見飽きがすると言うのがその欠点とされ、土地の商工新聞で市内八景の投票を募った際にも、当選圏内に入りながら、結局「変幻の妙趣」に乏しいという理由で、最後の銓衡でふるい落とされてしまった」

弘前城の西の藤田庭園の道を50mくらい行ったところにこの坂はあります。昨年花火大会の観覧のため、夕方から夜にかけてこの坂の上で見学していました。夕日からたそがれ、夜に移行するにつれ、岩木山のシルエットが刻々と変化していく様は、石坂のいうような単調な景色ではないと思います。岩木山の左にお月さんがあり、その光で山頂が照らされる姿はむしろ荘厳な印象を持ちました。

お城からも非常に近く、天気のよい日はぜひ新町坂からの岩木山を堪能してください。弘前の原風景をみることができると思います。