2010年4月27日火曜日

明治2年弘前地図(和徳米蔵)




 今日も、明治2年地図を眺めている。見るほどにおもしろいところが発見できる。

 明治2年というと、江戸時代が終焉し、これまで侍だったひとがいきなり職を失った時期であり、それは生活が大変であったろう。これといった特技もないまま、ある者は百姓をしたり、またある者は商人になったりするのだから、多くは失敗したのであろう。この間の家族の生活は、いったいどうしたのであろうか。

 明治2年弘前地図を見ると、例えば徳田町から和徳通りに突き当たったところに、米蔵があり、ここで武士に米を配ったようだ。「和徳御収納蔵 東掛北掛に区画し、(不明)八ヶ所 月々藩士へ米を渡す所」 の書き込みがあり、他の場所にも同じような倉庫がある。ここで生活に困った武士に米が配給されていたのであろう。続く明治4年の地図では魚市場になっており、短期間の間だけこういった米の分配所があった。ちなみに魚市場は平成2年に卸売市場ができるまで、この場所にあり、年配のひとに聞くと、その記憶があるが、ここが武士への米の配給所であったことは知られていない。現在はつがる漬の鎌田屋の敷地となっている。またこの倉庫の下の空き地は廣小路と称すとなっているが、こういった通称がやっかいである。詩人福士幸次郎の生誕地は弘前市本町5番地、通称橡の木(とちのき)とされるが、これが長い間わからなかった。近所のひとに聞いて、最近ようやく今の弘前大学医学部グランドの5つの道が合流したところであることがわかった。長勝寺構の手前である。明治2年地図ではこの構も乗田兵蔵馬場となっており、それに沿って今ではない町名建詰町の名前が見られる。

 田代町8番地には、一戸谷弥の生家である船水家があり、ここで1855年6月20日に後の陸軍大将一戸兵衛は生まれた。今では一戸兵衛陸軍大将の生誕の地の標識がある。ところが明治2年当時、兵衛は15歳、藩校稽古館で勉強していたが、当時の住まいは、この地図中瓦ヶ町のところに一戸谷弥の名前があり、ここから学校に行っていたのであろう。今は大きな道になっている。

 古地図では名前が書いている方向に門があり、町名は最初の字の方が位置的に高い位置にあるようだが、この地図ではそういった決まりはない。

 東京の方では江戸の古地図をもとに現在の地を歩くことがはやっているようだが、弘前では道あるいは町名がほとんど変化していないので簡単に江戸時代にトリップできる。と同時に今もこの当時と同じ家の子孫がそのまま住んでいることが多いため、地図すべてを公開することはできない。当時は今と違い、身分の差がはっきりしていたため、それが直接的に記載されていることもあるためである。

2010年4月25日日曜日

兼松石居2



 最近は明治2年地図ばかり見ている。地図自体は大きくて広げるのが面倒なため、カメラで適当に撮って、それをコンピューターに入れて、プレビューで大きくして見ている。

 地図で実際に見るよりは、コンピューターで大きくしてみる方がよほど見やすい。拡大、縮小、回転が自由にできるため、こういった地図を見るには便利である。添付した写真をクリックし、その画面をさらにクリックして拡大すれば詳細をみることができる。

 茂森町のところで、兼松石居の長男、艮の家を見つけた。茂森から坂を降り、川沿いに兼松艮の名前が見える。その前には長尾介一郎の家もある。兼松石居の次女りか(後に長尾介一郎の妻、たけ)の話によると「古学校の地、今の東奥義塾のある所の長屋に居ました。その隣は柔術の道場で、外に家はなく、あたりは薮原で漆の木やその他草木が茂っていた。裏の方に加藤の家(大工町加藤清兵衞)があって。裏の方から出入りしました。外に親族はなかったのです。この時も父に習いに来た人もありました。
新邸の家は今の新町坂の方、さいかちの木の向こうの方で、川に沿って笹原が有り、その上の方に森岡さんの長屋、その上の方が私の長屋で、後の方には原さんという家がありました。今の藤田氏邸辺には十余軒ありました。この時にも習いに来た者がありました。」と蟄居当時のことを語っている。

 この後半部分の新邸が地図に見られるところであろう。当時、兼松石居は長男で藩校稽古館の先生をしていた艮と一緒にここに住んだのであろう。また次女りかの嫁ぎ先である長尾介一郎の家も向えにあること、当時この辺りは田畑、荒れ地であったとことから、長尾介一郎が尊敬する義父石居のために住まいを用意し、自分もそばに住んだのかもしれない(長尾家は200石とりの中級藩士で城近くに家がある)。ちなみに明治2年当時、石居は60歳、長男艮は27歳、次女りかは16歳、長尾介一郎は24歳であった。一方、前半の蟄居されていたところは、下の地図で、上銀町のところに修武場というところがある。解説に古学校と称す、明治3年より東奥義塾となるとなっている。この修武場の一部に長屋があり、そこに蟄居していたのであろう。また後ろには加藤清兵衞の長男、加藤武彦の名前が見える。加藤清兵衞は石居の兄であり、武彦はその長男である。江戸暮らしの長い石居にすれば故郷弘前にいる親類は少なく、長尾家、加藤家くらいしかいなかったのであろう。世話になっている。後に鞘師町で石居は死ぬが、明治2年地図には記載がない。後年、石居は東奥義塾の創立に関わるが、その場所がかって自分が蟄居していたところというのはおもしろい。

 明治4年の士族在籍引越之際地図には兼松一?郎、長尾礼?一艮?となっており、明治2年地図からの誤植であろうか。弘前市史付録図では原図をコピーしているため判別できない。少なくとも記載の正確さから明治2年地図をもとに士族在籍引越之際地図が作られたようだ。

 ついでに言うと、長尾介一郎の友人で探検家の笹森儀助の家が前に紹介した在府町の地図にあるので探してみてほしい。陸羯南の生家中田家の道を南に下り、2本目に道を右に折れたところに樋口小三郎家隣にかなりくずしているが笹森儀助(世森とくずしている)の名前が見られる。
またちょっと難しいが、本多庸一の実家も相良町と在府町の境に見られる。わかるだろうか、地図では本多八郎左エ門(門は口みたいになっている)とくずして記載されている。本多庸一父、本多八郎左衛門久元のことである。

2010年4月23日金曜日

明治2年弘前地図(植田町、坂本町)



より大きな地図で お城までルート を表示
 もう少しすると、弘前も桜祭りの季節になります。大型バス、列車などを利用して大勢のお客さんが県外からお見えになられます。百聞は一見に如かずといいますが、日本一の桜といくら言われても一度見てみないとわかりません。一度、見るとほとんどの人はなるほど日本一と感じるようです。

 せっかく来るなら、城内を散策するだけでなく、花見もして帰ってください。当日は城内、人でいっぱいですが、それでもどこかは空いています。ビニールの何でもよいのですが敷物は持参してください。

  弘前駅に朝来るのであれば、まず駅の観光案内所に寄ってください。そこで商工会議所が最近発行した「懐かしマップ」を無料でいただけます。これは昭和10年に発行された弘前の地図です。今の地図もありますので、両方比べながら歩いてください。

 駅からお城方向にヨーカドーがありますので、その建物の手前を左折すると、虹のマートと呼ばれるスーパーがあります。魚を中心とした市場で、かなり早い時間、確か8時ころから開いています。ここは弘前市民が昔からよく利用する地元市場で、鮮魚から総菜など多くの店が入っており、よそからきたひとには、なかなかおもしろいところですし、地元ならではの食材が手に入ります。ここで花見用の酒、おつまみをゲットします。

 ここから駅までは歩いて20,30分というところでしょうか。駅前のまっすぐ広い道を直進するのもおもしろくないのですし、このまま城に行っても右か、左に曲がらなくてはいけません。右折して右隣の道をまっすぐに行った方がよいと思います。ここは植田町、あるいは南横町を通って右に出たらどうでしょう。植田町は駅からの広い道をまっすぐに行き、みちのく銀行が見えたら、次の細い道を右折したところです。明治までは中流から下級武士が住んでいたところです。南横町(坂本町)は郵便局前のハイパーホテルのところを右折したところです。昔からの店屋がまだ何軒かあります。ほぼ江戸時代の街割りが、これは武士の土地を与える時に道にそって等間隔に割ったこと、残っています。大体は私の歩数で9歩が基準で、それの倍数、3倍という家もあります。奥行きがやけに長い家が続きます。くわしくは一緒に載せた明治2年の弘前地図を参考にしてください。ほぼ江戸時代の街割りがわかると思います。

 植田町、南横町(坂本町)を過ぎると少し広い道にでます。これが和徳通り(わっとく)と呼ばれる道で、明治から戦後まで非常ににぎやかだった通りです。ここからは岩木山がまっすぐに眺められます。つがる漬が好きなひとはこの通りに老舗の鎌田屋があります。ここの白い倉庫は道からも少し見えますが、昔は千葉金商店という古い店のもので明治期ものと思われます。この先の橋が朝陽橋と呼ばれ、ここでは江戸、明治期にはねぶたの喧嘩が行われ、死傷者も出ています。この橋近くからは河辺にも降りられるようになっており、鴨や鯉なども見られます。

 ここからはお城も見えてきますが、左に弘前市民文化ホールがあります。この隣にちょっと帝国ホテルを建設したライト風の建築物が見えますが、これは第五十九銀行頭取(青森銀行)を務めた高谷英城の別邸で明治28年に建てられたもので今はレストランになっています。少し高いですが、豪華な気分に浸れます。また市民文化ホールの右には弘前中央高校があります。昔は弘前高等女学校と言われ、あの石坂洋次郎の「青い山脈」の舞台となったところです。今でも美人の多い高校です。

あとは城内に入り、花見を楽しんでください。

2010年4月22日木曜日

明治2年弘前地図(弘前城)





 今日は休みなので、弘前市立図書館に行ってみた。目的は弘前市史の付録として入って士族在籍引越之際地図のコピーを取ることである。この地図の原本は見たことないが、弘前市立博物館に納められているようだ。地図説明には「この地図は、廃藩置県当時の弘前城下の様子が分かる貴重な絵図である。一筆ごとに在住士族の名前が克明に記されているほか、明治4年以後、同十年代ころまでの変遷の様子も書き込まれている」とある。

 付録の図はかなり縮小されているため、はっきりしないところもあるが、今回の仮に明治2年地図としようは、この士族在籍引越之際地図とほとんど同じといってよい。書き込みもほぼ同じことが書かれており、同一作者の可能性が高い。ただ詳細に見ていくと、少しずつ違い、例えば弘前城の内部については明治2年地図の方が描写は細かい。全体的には明治2年地図の方が詳細である。

 東奥義塾の前身の藩校稽古館についても、士族在籍引越之際地図では所在が不明であるが、明治2年地図では下白銀町付近に記載があり、後の義塾と割合位置的に近かったことがわかる。

 保存状態もよく、彩色された色合いは実にきれいで、弘前に住んでいた画家村上善男さんの後期の作品を思い出させる。何らかのインスピレーションがあったのであろう。

 いずれにしても、どうしてこの時期にこういった地図が書かれたのであろうか。明治4年の戸籍制度、地租や郵便制度とも関係があるのか。ここに少なくとも2枚あるということは、同一作者により何らかの目的で書かれたもので、単に趣味で作ったものではない。注文主がいて、作らせたものと思われ、さらに枚数が書かれた可能性もある。明治初期の住宅地図は全国的にも非常に貴重であり、これほど細かく書かれたものは少ないと思われる。町の変遷が克明に把握できる。

2010年4月21日水曜日

明治2年弘前地図(在府町、塩分町付近)




 友人の先輩歯科医より、「うちに古い弘前の地図があるんだが、先生は弘前のことに興味があるようなのであげるよ」と言われたので、よろしくお願いしますと言ったところ、本日わざわざ持ってこられて恐縮した。正直に言うと、古い印刷した地図くらいに思っていたが、持ってきた地図は2枚、一枚は青森県全図、もう一枚は弘前市内のもので、いずれも手書き、彩色の1.5×2.0mくらいの大判の精緻なものであったため、驚いた。こんな貴重なものはいただけないので、いずれ保存できる博物館や図書館に寄付する前提で一時的に預かることにした。

 この弘前の地図は、このブログに何度も登場した明治4年7月の士族在籍引越之際地図とほぼ内容は一緒である。くわしく比較していないので詳細は不明であるが、覚えている限りでは幾分の違いがある。一度、比較検討する必要があろう。

 明治2年11月の弘前地図とされており、上記地図より1年8か月前のものだが、地図上の書き込みにはそれ以降のことも記載されており、明治2年に製作されたものかは不明であるが、明治初期のものであるとは言えよう(明治11年に今の朝陽小学校当たりが開墾され、小学校の学田となったとの書き込みがある)。

 例えば、珍田捨巳の生家は森町であるが、明治4年には生活のため農業に従事することになり黒石近郊の浅瀬石に移住した。この地図では時鐘堂の前に珍田直太郎の名前が見える。珍田の父有孚(ありざね)は野呂家からの養子であり、珍田の家の3軒隣に野呂の家がある。この直太郎は捨巳の父のことであろうか。いずれにしても明治4年より前のことである。

 また在府町の陸羯南の生家、中田家は今の標識のある場所であるが、山田兄弟の生家は、確か士族在籍引越之際地図では中田家の真ん前であったが、この地図では右斜め前に山田兄弟父の山田浩蔵の名前が見える(確認したところ士族在籍引越之際地図と明治4年地図の記載は全く同じでした)。ただ実際の場所でみると西小路と茂森までは結構距離がある、ここに2軒しかなかったのも不思議である。

 山田の家から茂森に出て、その上の方を見ると弘前劇場元祖座元廣居藤八の名前が見られる。元祖ということは明治期には弘前劇場が何軒もあったのか、どこにあるのか、また探したくなる(士族在籍引越之際地図ではここの場所は劇場とのみ記載されており、ここに弘前劇場があったのであろう)。

 博物館などの寄贈してしまうと、研究者以外なかなか実物を見ることができなくなってしまう。情報をデジタル化して完全に開示することが、重要と思う。本ブログでできるだけ、明治初期の弘前を紹介したいと思う。地図を完全に画像化することは難しいので、手持ちのカメラで写した像を貼っていく。画像を軽くしないと貼れないが、できるだけ拡大しても名前が判別するようにしたい。要望があれば、そこの場所の画像を提供したいので、連絡されたい。

2010年4月19日月曜日

第百回松蔭祭(吉田松陰先生記念会)



 昨日、養生会主催の第100回「松蔭祭(吉田松陰先生記念会)にお誘いを受け、参加してきた。嘉永五年(1852年)3月1日(旧暦、新暦では4月18日)に長州藩の吉田松陰先生と熊本藩の宮部鼎蔵先生の二人が弘前の伊東梅軒先生を訪ねたことから、それを記念して明治44年からこの会を開いているという。

 当日は養生会の会員2−30名が参加し、国家斉唱の後、これはおもしろいと思ったのは、吉田松陰先生が著した東北遊日記の中から弘前滞在に関する文章をまとめた摘録を代表者が朗読し、その後吉田松陰先生の詩、歌、伊東梅軒先生、伊東重先生、陸羯南先生の詩をみんなで朗読する。久しぶりに漢文の世界に入り、その格調高い文にふれて感動した。また今回は秋田先生による「比較、近現代史」と題する記念講演もあり、これも大変おもしろかった。

 新市長の葛西市長もわざわざ記念会に参加され、こういった古くから続く事業を大事にしている姿勢を感じた。

 100年も続いていること自体がすごいことである。この間、明治、大正、昭和、平成とめまぐるしく時代が変わり、ことに敗戦後の混乱時期にも有志が集まって記念会を続けていることは奇跡である。それも百年といえば、大きな節目であるにも関わらず、何事もなかったように淡々としているのは、すがすがしい。ややもすれば、100年も続いていると自慢したくもなろうし、また盛大な記念会を開催しようという見栄も出てこようが、そういった雰囲気はこの会には全くない。含蓄だろうか、それとも質実剛健をモットーとする会の方針だろうか。これが弘前および市民の偉大な点であろう。

 養生会の生みの親、伊東重は津軽藩医の息子として弘前市元長町に生まれ、東奥義塾から東京大学医学部を卒業した。その当時のエピーソードとして、義塾で英語をみっちり習ったため東京大学では英語の授業が免除され、その時間を利用して義塾の学友で理学部に学んでいた岩川友太郎と一緒にモースの進化論の授業を受け、それがその後の養生学に発達した。岩川も英語で十分にモースと会話できたようで、伊東も秀才の集まる東大でもその英語能力が飛び抜けていたことがわかる。当時の東奥義塾の英語教育のレベルを知ることができる。ちなみに漢学のコースでも独特な教育があったのか、一戸大将も今でいう士官学校の入試は、この漢文能力で合格したし、日露戦争旅順攻略戦で乃木と唯一漢詩を作り、批評しあったのが一戸大将であった。文人として知られる乃木に劣らない漢文の素養があった。

 ちなみに伊東重が市民の健康増進、医者いらずの体作りを提唱した養生会の設立は明治27年(1895)、今年で115年、その運動の一環として養生幼稚園が創立されたのが明治39年(1907)、今年で103年、いずれも古い。弘前は古いものが多く残っているところで、近所の写真館は来年で130年、先の述べた黄金焼店が124年、御菓子司 大阪屋にいたってはなんと創業は寛永7年(1670年)で340年に歴史をもつが、こういったことを誇ることはない。ただ商売をしてきて時がたったという感じなのである。ここらあたりの素っ気なさというのがよい。

 懇親会の席上でも話題になったのは「藤田のブドー液」で、このブドー液は昭和3年から作られ、今でも弘前では年寄りから若者までなじみが深い。もともと明治政府の肝いりでブドウが海外から殖産のため輸入され、それを今の弘前駅近くの大町付近でブドウを栽培したのが「藤田葡萄園」で、栽培には大変苦労しながら、葡萄酒、葡萄ジュースを作った(弘前市松森町で酒造業を営んでいた六代目藤田半左衛門が和徳村字福田(現大町一丁目)に開いた葡萄園、石碑がある?)。ジュースの方が液と呼ばれるのだが、なるほどこれは濃いジュースというよりは液に近いもので、かっては病気にならないと飲めない、死ぬ前に「ぶどう液を飲みたい」といってようやく飲めたという代物である。ほとんど養命酒の世界で、畏れ多くジュースとは呼べず、今でも薬屋で売っていたりする。発売から82年目を向かえる。

 お盆やお彼岸に墓参りに行くが、こちらでは縁者の墓参りもするため、花もいっぱい持っていき、まず自分の家の墓所を行ってから、違う寺の分家や縁者の墓をあちこち回る。子どもからこの墓は誰のかと聞かれても、わからず、おやじのころからここには参ることになっているとしか言えなかったという笑えない話がある。内の家内の墓所でも、先にお参りしていたひとがいたので、だれかと聞くと、曾じいさんの兄弟の子どもの子どもと言われた。ほぼ100年前に分かれた縁者ということになる。

 これほど弘前の地というのは、100年が身近な街である。

2010年4月12日月曜日

兼松石居


 江戸末期の津軽藩の儒学者であり、東奥義塾の創立者の一人である兼松石居の子孫の方からメールをいただいた。現在、九州にお住まいで、祖母から津軽の桜、ねぶたのことを聞いて育ったという。先祖の兼松石居のことで知っていることがあれば、教えてほしいという要望であったが、浅学のため当方もくわしくは知らない。

 兼松石居(1810-1877)は、列三郎、三郎、成言、誠など多くの名前をもつが、ここでは号である石居に統一する。石居は1810年に津軽藩上屋敷のあった江戸で生まれた。幼いころから非常に学問ができ、幕府学問所の昌平坂学問所で学ぶ。30歳になると、藩の侍に学問を教える書院番という役職があたえられ、世子武之助の教育係や蘭学塾を開いたりするが、不幸なことに世子が若くして亡くなり、その後の跡継ぎ問題に関わり、国元津軽で蟄居されることになった。48歳の時である。

 今の弘前市立図書館のあるところに蟄居され、さらには妻が江戸からの長旅で病死し、長男の妻、子供もなくすという不幸な境遇が重なった。4年で許され、現在の茶畑町で私塾麗沢堂を開き、100名を超える学生を育て、その後は藩学校の稽古館、さらには明治に入ると、菊池九郎とともに東奥義塾の創立に関わった。明治10年に盲腸炎のため、死去。67歳だった。森鴎外の「渋江抽斎」の中にも兼松石居の名前はよく出てくる。

 森鴎外「渋江抽斎」99には「石居は酒井石見守忠方の家来屋代某の女を娶って、三女二女を生ませた、長子艮(こん)、字は止所が家を嗣いだ。号は厚朴軒である。艮の子成器は陸軍歩兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる」としている。

 渋江抽斎風に言えば、兼松石居は兼松久庸(5代)と妻いとの3男で、長男久通(6代)、二男晋は加藤家の養子に行った(加藤清兵衛)。この子供が加藤武彦で、その長女せいが山中卯太郎に嫁ぎ、その長男で外交官の山中千之の妻が珍田捨巳の長女貞子である。また山中卯太郎の妹いはが珍田捨巳の妻となる。加藤武彦の三男の三吾は後に沖縄学を興す。石居は屋代氏のしんと結婚し、艮(トドム)、しほ、直(ナホキ)、郎(イツラ)、りかの3男2女をもうけた。長男艮は成田氏の美代子と結婚するが、美代子、長男於菟(森鴎外の長男と同じ名)は若くして亡くなる。次男成器は東京攻玉塾より陸軍に入り、最終的には陸軍少将になり、長寿を全うした。長女しほは、本家の久通(6代)の子穀(7代)に嫁ぐも、子供がいないため、弟の郎(8代)を養子に迎える。しほは近代的な学問を受けた人で、若くして夫に先立てながら、東奥義塾の小学科女子部で先生をしながら英語を学び、その後函館に遺愛女学校ができると、そこの教師となり、入信した。石居の二女りかは、今風の名前だが、これはペリーが来航したことに因んでつけられたようで、石居もおもしろいひとである。このりかは弘前市に今でもある長尾牛乳の祖、長尾介一郎に嫁ぎ、さすがに名前が奇抜なのか、たけと名前を変え、その子孫が現在まで続く。石居の3男直は桐渕家に養子にいった。

 つい最近まで、結婚で最も重視されたのが、釣り合いであり、お互いの家族の身分や家庭環境が同じであることが大事にされた。そのため、武家は基本的には武家の家から嫁、婿を迎えることになり、それもある程度の身分が関係していたため、同族の中での婚姻も多く見られ、親戚関係を複雑にしている。さらに先祖のことを知ろうとと思っても、母親、父親には直接聞けばわかるが、祖母、祖父となると、聞く側の年齢が若く、はっきりしたことは聞けないし、さらに祖母、祖父の父、母、つまり曽祖父、曽祖母あるいはその親類となるとよほど有名でなければ子孫が知ることはない。

 さらに続く。兼松石居の稽古館時代の弟子、藤田潜は、後に東京で近藤真琴と一緒に攻玉塾(社)を創立するが、ここに入学するのが、石居の孫となる兼松成器であり、石居の兄の孫に当たる加藤三吾である。また石居の三男郎の娘も攻玉社に入る。攻玉社はもともと海軍士官を多く輩出してところで、海軍士官学校の予備校化していたが、石居の関係者の一人は陸軍に、一人は先生、もう一人は女子部に入るというのはおもしろい。ひょっとすると、弘前、函館で学校の先生をしていたしほは上京して攻玉社の小学校女子部の先生をしていたかもしれない。攻玉社の教授陣には弘前藩校の出身者が多く、藤田潜だけでなく、山澄直清、奈良茂智、出町良蔵の名前が見える。すべて兼松石居の弟子である。また弘前市茶畑町出身の秋元猛四郎少将は攻玉社の出身である。渋江抽斎の子保も明治16年から攻玉社の教師となっている。

 写真は、石居の私塾「麗沢堂」があったと思われる茶畑町である。つい最近火事になり、広い空き地が広がる。弘前は、賢いことに江戸以来の町名を全く変えていない。そのため、森鴎外の渋江抽斎を読んでも、容易に今の場所が推測される。

2010年4月11日日曜日

シグマDP2S続き




 前回、シグマDP2Sのことを書いたが、本日までに、4G分200枚くらい撮影した。このカメラの最大の欠点と言われるフリース、操作途中で全く動かなくなり、ONボタンの長押し、電池の入れ直しにより回復も、6回ほど経験した。デジカメではあまり経験したことのないことなので、最初はびっくりしたが、慣れてしまった。これはニコンやキャノンなどの大手メーカでは考えられない欠点である。致命的な欠陥でなければ愛着があってよいと思う。

 今やデジカメもRAW撮影が一般的になってきたが、シグマDP2もRAW撮影が基本であり、Sigma Photo Proというソフトで現像する。RAW撮影になってからは、画像処理も実に簡単になり、私のようなアナログ、銀塩写真人間には驚くばかりである。露出の調整も以前は、ソフトの方で調整するのが難しく、カメラの方で露出補正をしていたものだが、RAWデーターでは、ソフト側の露出補正でほぼ満足いく画像が得られるため、カメラでいちいち露出補正する必要はない。

 このカメラの面白いところは、昔の銀塩写真と同じく、ソフトで現像してみないと仕上がりが全くわからない点である。確かにカメラの液晶画面で、ある程度は確認できるし、DP2から2Sになり多少は液晶もよくなったが、それでもリコーやキャノンものに比べるとかなり落ちる。あくまで大まかな構図決定と確認ができるだけである。現像してみて、はじめて画面の良し悪しがわかる。

 銀塩写真ではフィルムがもったいないので、かなり緊張して撮影したし、デジタルに変わると、枚数は撮るが、それでも被写体を自分で決めて撮ってきた。ところが、このDP2では変な被写体の方が肉眼で見るより、面白く写るため、普通こんな所は撮らんだろうというところもわざと撮ってみるため、枚数をさらに撮ることになる。

 上の写真もある民宿の玄関を撮ったものだ。周辺のゆがみもなく描写がクリアーのため、実物は何の変哲もない建物であるが、存在感がある。かなり拡大しても、画像の破綻は少ない。今日は、人物撮影もしてみたが、40mmといっても、実感としてはもう少し広角的で、屋内でのストロボを使った人物写真を撮るのはかなり苦労する。結婚式やパーティーには向いていない。DP2といっても、基本はDP1と同じく、外用、散歩用のカメラと言えるのかもしれない。このカメラの色調は、1960,70年代の日本映画、東洋現像所の上がりに似た色合いである。

 専用ストロボ、レンズフードなども購入した。ショルダーストラップやケースも揃えたいが、今やカメラも若い女の人がやるせいか、おしゃれなものがたくさんあり、迷ってしまう。自転車、アウトドアグッズも女の子の進出に従い、カラフルになり、おしゃれになった。カメラ、自転車、バイク、自動車、歴史物、コンピューター、サッカー、野球などの雑誌はかっては、男性雑誌コーナに入れられていたが、今や女の子のファンも多く、純粋に男性雑誌というはもはやミリタリーものやそれと関連したプラモデルものくらいであろうか。水木しげるさんの奥さんはおもしろい人で、若い頃、金もないのに水木さんが買ってくる艦船のプラモデルを一緒に作るのが楽しかったと語っていた。若い女の子で飛行機、戦車、艦船などのプラモデルを作る子が多くなれば、おもしろい。

2010年4月4日日曜日

ミノルタCLEの後継機 シグマDP2S



 大学時代から長い期間、かれこれ20年以上私の愛用のカメラはミノルタのCLEであった。我が家のほとんどの写真はこれで撮ったといっても過言でない。40mmというレンズは、いわゆる標準レンズと呼ばれるもので、人間の視覚に最も近いレンズである。ひとを撮るのにはある程度接近する必要があるため、状況によっては90mm望遠がほしい、逆に28mm広角がほしいということもあるが、交換レンズが高価なので最後まで40mm一本であった。慣れれば、それだけ近づけばよい訳で、そういった感覚には何となく慣れてしまった。

 デジタル時代になっても、俺は銀塩でいくとかなり抵抗していたが、一度デジタルに慣れるともう引き返せない。ソニーのサイバーショットを買うと、もうCLEを持つことはなくなった。と同時にカメラで写真を撮ること自体が次第に楽しくなくなり、単純な記録媒体になってしまった。とりあえず撮っておこう、後でトリミングすればいいから構図はどうでもいい、プリントするのは面倒なのでコンピューターに入れっぱなし、できるだけ数いっぱいとっておこう。昔のような現像、プリントして初めて見るという緊張感もなく、写真を撮る行為自体が適当になってきた。

 そんなこともあり、何かおもしろいコンパクトデジタルカメラをと物色していたところ、シグマから出ているDPシリーズに興味が引かれた。このカメラの最大の特徴は、銀塩カメラのフィルムに相当するカラーセンサーにFoveonという特殊な構造の大きなセンサーを搭載している点であり、通常のコンパクトデジタルカメラでこんなに大きなセンサーを搭載している機種はない。カメラの性能は簡単に言うとフィルムとレンズで決まるのであるから、いくらレンズがよくてもフィルムがだめなら意味はない。DPシリーズは昔のコダックのエクタクローム、コダクロームといった懐かしいポジフィルムを思い出す。風景はエクタ、人物はコダクロームといった使い分けをした人も多かった。そういった意味で実に発色のすばらしいカラーセンサーである。熱狂的なファンも多く、操作は最悪だが、うまく当たればほぼ一眼レフあるいは中判カメラのオーダーであるという声が多い。

 DPシリーズには35mm換算で28mmになるDP1と40mmのDP2に分かれる。これはほぼミノルタCLEのラインと同じで、確かにCLEでは90mmという望遠も用意されていたが、ほどんどのひとは28mmと40mmしか使わなかった。現在ではDP1は1xに、DP2は2sになっており、以前に比べてオートフォーカスのスピードも早くなり、液晶画面もよくなったし、考えている時間も少しは減った。それでもキャノンやリコーのコンデジに比べると操作性は圧倒的に劣っている。結局、28mmよりは40mmの方が慣れているので、3月末に発売されたばかりのDP2Sを購入することにした。

 本日、買ってすぐに町中を撮影してみた。ほとんど画像処理しなくても、天気がよかったせいか、割合きれいな色が出ていた。附属のシグマフォートプロというソフトでも簡単に画像処理できる。画像の解像度を落としているのでわかりにくいと思うが、犬の顔に写り込んだ外の景色やレンガ倉庫の壁面の描写がすごい(コンデジではなかなかこの写り込みはでにくい)。

 ミノルタCLEの後継機種を出してほしいとの声も高いが、個人的にはこのシグマDP2SがCLEに一番近い機種のように思える。F値こそCLEが40mmF2.0でDP2がF2.8だが、大きさ、重さともDP2の方がやや小さく、どちらもサブカメラとして使いやすい大きさである。ケース、フードなどカスタム化してしばらく使ってみよう。いいカメラである。