2012年2月5日日曜日

尺八の乳井月影と能の喜多権左衞門



 明治二年弘前絵図の人名データベースが出来たため、夢中になって所蔵する文献で生家を検索している。便利なものですぐに検索でき、それを絵図で確認していく。ここまでものの数分で完了できるだけでなく、例えば工藤という姓で検索すると87軒ヒットするが、その中から住所などから調べたい人物を推定することも可能である。

 データベースソフトとしてファイルメーカを利用しているが、診療所のファイルメーカーはver6であるが、自宅のMac Bookでは使えないので、今とところ試用のファイルメーカーver10を利用している。試用期間も迫っている。早くファイルメーカーも更新したいところだが、病院のI-macも新しくしなくてはいけないし、いくらなんでも現行のISDNではきつくて光回線にも変えたいので、機器、無線環境の設定の同時更新を躊躇しているところである。

 昭和の外交官で戦前、日中和平に奮闘した元外相佐藤尚武は、警部長の田中坤六の二男である。当然、田中坤六で検索してもわからない。さらにインターネットを調べると、田中家は藩祖津軽為信の身代わりになって死んだ名臣田中太郎五郎の子孫であることがわかる。そこでさらに田中太郎五郎で検索するもこれも該当者はいない。続いて、インターネットで田中太郎五郎を検索していくと死んだ太郎五郎の後を嫡男宗右衞門が継ぐとの記載があるので、またデータベースで田中宗右衞門を検索すると長坂町にその名が見られる。菊池九郎の近いところである。これで佐藤尚武の実家がほぼ判明することになる。ただ「ポトマックの櫻 津軽の外交官珍田夫妻物語」の巻末に関連系図が載っているが、田中坤八の父の名は田中太郎五郎正意とある。子には又蔵、五郎がいるが、どちらかが宗右衞門を名乗ったか、あるいは田中坤六の名がそうなのかは、結局わからず、未だに断定はできない。

 菊池九郎の母親、幾久子の実家は奈良家も同様である。父親の奈良荘司は弘前藩のお家騒動である笠原騒動に連座し、処刑されるが、その後、再興される。明治二年当時では、再興された家がどこかにあるはずだが、データベースでは14軒の奈良姓がある。稲葉克夫先生の「青森県における自由民権運動」という論文があるが、ここでは奈良誠之助という人物が取り上げられ、その祖父として奈良佐衞門という名がでるが、どうも事柄からこの佐衞門とは奈良荘司のことであり、奈良誠之助は慶應初年に鷹匠町に生まれたとなっている。そこで14軒の奈良を調べると、鷹匠町に住む奈良姓は奈良庄左衞門がある。この庄左衞門が、奈良荘司の子供、誠之助の父かは不明であるが、かなり高い確度で菊池九郎の母方の実家はここだと特定できよう。

 一方、弘前藩士で新撰組に入った毛内有之助は、毛内有右衞門祐胤の二男であるが、長男の名前は毛内有人、これはもろに元寺町のその名があり、すぐに断定できる。根笹派錦風流尺八の名手、乳井月影は、幼名を永助といい、その名もすぐに在府町西小路に見つかる。ついでにその師匠の伴勇蔵建之の名も近くの在府町にある。多くの弟子の名前も在府町、相良町中心に見つかる。さらに能楽では喜多流シテの粟谷能夫の弘前城築城400年の演能のインタビューの中で「十五世宗家・喜多実氏の実兄である後藤得三氏の芸談によれば、弘前には喜多の分家にあたる喜多権左衛門家があったともいう」と述べているが、この中の喜多権左衞門の家は富田新割町に見つかる。

 昨日、紀伊国屋書店で笹森貞二著「弘前市長伝」を買う。早速調べると、初代市長菊池九郎の生家はすでに同定している。二代長尾義連についてはデータベースでは6軒ヒットするが、本文中の記載からはヒントがなく同定できない。三代目赤石行三は、幼名を礼二郎という。赤石禮二郎で検索すると元大工町に名が見える。同時に本文中の記載から、この赤石家は仇討ちで有名な赤石愛太郎の実家だとわかる。愛太郎は仇討ち直後に自決したが、藩は赤石の家の断絶を惜しみ、親戚筋の土岐渡人の二男礼次郎を養子にし、赤石家を相続させた。維新後に行三と改名し、後に弘前市長となった。六代目の小山内鉄弥は、柳町で1853年に生まれたという。明治二年当時、当然屋敷主は鉄弥の父親になるが、その名は本にはない。データベースでは小山内姓は21軒ヒットするが、このうち柳町の住所は小山内連司となるが、これが父かはわかないが、確度は高い。

 こうして一人一人調べていくと、かなり多くの人物の明治二年当時の実家がわかるが、それがどうしたと言われれば、その通りである。それでもおもしろい。

*ところで下図に載っている清水の記載あるのはどこであろうか。他に清水の記載のあるのは胸肩神社と富田の清水のみだが、今はもうないのだろうか。

4 件のコメント:

かなめ さんのコメント...

広瀬先生、はじめまして。

私は弘前出身なので、いつもブログを楽しみにしています。

久々に先生のブログを拝見したら、手入力でデータベースを作成されていて、すごい!と思いました。お疲れさまでした。しかも先生は入力のペースが速いですね!

私の母の実家は、和徳で祖父は足軽でした。

祖父の実家は足軽なのに、祖父は和菓子職人で、祖父の兄弟は桶をつくる職人と聞いていたので、子供のころからとても疑問に思っていましたが、先生のブログを読んで謎がとけました。
とてもうれしかったです。ありがとうございました。

二月は本当に寒いですよね。今年の弘前は雪も多くて大変だと思いますがどうぞご自愛下さい。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。おじいさまの実家、すぐに検索できますので、歯科医院の方のお問い合わせからメールで、曾祖父のお名前を教えていただければ、すぐに明治二年当時の在所の地図、添付いたします。

藤田竹心 さんのコメント...

はじめまして、弘前浜の町在住、錦風流尺八の藤田昌宏(竹心65歳)と申します。前川耕月さんとは竹友であり、広瀬様より貴重な情報があった事伺い、当方も喜んでおります。10/7日伴勇蔵建之師の菩提寺、誓願寺で虚無僧研究会の献奏会を行います。5/11~13その先発隊として前川さんもこられますが、時間があれば広瀬様に会いしたいと申しておりました。滞在中の予定が決まりましたら、改めてご連絡いたします。これからもよろしくお願いします。
ありがとうございました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

藤田様 時間がありましたら、一度お話しを聞きたいと思っています。出来ましたらブログ右に書いていますアドレスにご連絡ください(hiroseorth@yahoo.co.jp)。