2013年2月24日日曜日

上田槐堂、工藤儀郎


 「明治二年弘前絵図」、旧版について少数在庫があり、何人かの方から問い合わせがあったが、こういった本の需要はまだあるようである。ありがたいことである。「新編明治二年弘前絵図」の内容は、半分くらいは旧版と重複しているが、大幅な文章の追加を行ったので、期待していただきたい。4月ころには発刊できそうであるが、歯科医師会、矯正歯科の各種の仕事があり、さらに今年の5月に弘前で東北矯正歯科学会大会が開催されるが、その大会長を仰せつかっているため、忙しい。一部、新たな情報を掲示したい。

 鍛冶町川端丁に上田与五郎の名がある(右から3番目)。書家、儒学者の上田槐堂(1788-1866)のことである。名は昌栄、通称与五郎、字槐堂、幼名栄次郎、左門、惣蔵と名乗る。書道上田流の開祖、上田素鏡の曾孫に当たる。素鏡は信州上田の出身で、享保20年(1735)、六代藩主津軽信著の時に右筆として召し抱えられ、二代惣蔵の代には勘定奉行、用人を勤め、禄も200石となった。四代目の槐堂は、小姓頭、大組足軽頭などを歴任し、林大学頭に詩文、経学を学んだ優秀な学者、書家であった。主君にもかわいがられたが、順承の世子問題で、大道寺玄蕃、笠原近江に妬まれ、永の暇、相澤村(青森市浪岡相沢)への牢居流罪となった。引き離された家族5人は、わずか二人扶持が与えられ、この鍛冶町川端丁でひっそり暮らした。天保10年に恩赦により牢居は許されが、隠居となり、黒石で私塾“上田塾”を開いた。倅の賢之助が100石、後に50石加増され、家督を継いだ。槐堂は、12代藩主承昭からその知識を請われ、文久二年(1862)に稽古館小司となり、若者たちの育成に力を注いだ。慶応2年に亡くなっているので、戸主は倅の賢之助(昌一)の名になっていなければいけないが、そのままにしていたのか、倅も通名の与五郎の名を名乗ったかもしれない。本来なら下級士族町の鍛冶町から他の所に移るべきだが、そのまま住んだのであろう。

 工藤儀郎の名が上瓦ヶ町にある(図左側一番端)。工藤儀郎(1832-1891)はここで私塾を開き、主として幼少の子供たちに漢学の初歩を教えた。当時の授業は素読と呼ばれるもので、中国の古典を意味もわからず、暗記させ、読ませた。この方法が良かったかどうかは別として、当時の士族は皆、この修練を受けた。そのため、漢文に対する免疫があり、おそらく普通の人でも現代の中国文学の専門家並みの漢文読みであったろう。工藤儀郎の私塾には。菊池九郎、本多庸一、珍田捨巳などが習った。本多庸一はその後英語を学び、アメリカに留学して、日本のキリスト教の指導者となるが、その根本思想は漢文であり、工藤儀郎塾でも本多は抜群にできのよい子供であった。対照的に菊池九郎は塾に行くのがいやで、ついさぼろうとするのを何とか本多の誘いで通っていた。士族はその後、藩校稽古館に通うようになるが、その前段階の塾として、この工藤塾は有名であったのであろう。場所的にはちょうど今の松野整形外科前当たりとなる。瓦ヶ町も下級士族の町ではあるが、絵図上には一戸兵衛陸軍大将、新撰組隊千田兵衛、慶応義塾で学んだ寺井純司、漢学者の工藤行幹、菊池元衛の実家がある。菊池元衛の長男、菊池武徳(1867-1946)は、東奥義塾卒業後に東京専門学校、慶応義塾に学ぶ。その後、時事新報記者を経て、朝野新聞を経営した(1891-1893)。政界に転じ、衆議議員となったが、晩年は多くの著作を著した。

上田槐堂も黒石藩主にその学を見込まれ黒石に上田塾を開設したが、こういった漢学を主体とした私塾は江戸期多くあり、その師匠により生徒は大きな影響を受けたのであろう。


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