2013年6月6日木曜日

新編明治二年弘前絵図 増刷


 学会も終了して、新編明治二年絵図の増刷にかかっている。読者から禅林街の記載が間違えているとの指摘があり、調べると、絵図自体の記載が間違っていた。多少の変更はあるが、禅林街の寺院配置は江戸時代から今まで、大きな変更はなく、明治二年絵図のような寺院配置の変更はなく、調査不足、元にした資料自体が間違っていたのであろう。

 こういった基本的な事柄は、寺社奉行あるいは、禅林街では総まとめの長勝寺で簡単に把握できるため、どうしてこのような間違いがあったのかは、不思議である。これはあくまで想像であるが、士族の家同様に寺院でも表札がなかったのではなかろうか。今日のように家に表札がかかるようになったのは大正ころからで、江戸時代は家に表札はなかった。寺院においても今は入り口のところに大きく、寺名が書かれているが、江戸時代は案外、何も書かれていなかったのかもしれない。

 寺の収入の多くは、大きな寺では藩による寺領があったが、小さな寺では檀家収入で成り立っていた。上流士族、大きな商家が主たる檀家で、寺の収入のウエイトの大きなところでは、明治初期、士族が廃業し、経済的にも混乱していた時代は、寺院経営も厳しかっただろう。さらに明治まで寺院の住職は基本的には妻帯禁止、世襲制でなかったため、無住の寺院もあったのかもしれない。全昌寺は無住のため、隣に海蔵寺に吸収されている。

 また新寺町の塔頭の位置も違っており、他の場所についても明治二年絵図をそのまま全面的に信じるのは、やめた方がいいのかもしれない。例えば、土手町にあった高札、制札の位置についても、明治二年絵図では、現在の蓬萊堂のところに記載されており、「つがる巷談」(吉村和夫著、1985)にも土淵川岸と中土手町64番地、土田和吉所有の屋敷にはさまれた約十坪の広さに高札があったとし、場所は蓬莱橋の中土手町南側たもと(現蓬萊堂)となっている。

 ちょうど蓬萊堂が東に移転し、十坪くらいの空き地ができたので、ここに江戸時代風の高札を立てたらどうかと市の職員に聞いたところ、高札のあったのは下土手の北側、ピザ屋の隣くらいという。蓬莱橋自体何度も立て替えもあり、場所も少しは移動しており、これも明治二年絵図をそのまま信じる訳にはいかない。

 せっかく増刷するので、安済丸を作った石郷岡鼎や隠れた津軽の数学者、佐藤正行など載せたい人物もいたが、調査する時間がなく、禅林街の部分を一部修正して、近々に増刷したい。前に買いそびれた方は是非買ってほしい。7月には500部くらい増刷予定であるので、できれば紀伊国屋弘前店などに予約してもらえば、確実に手に入ると思う。

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