2013年6月25日火曜日

阪口塾2



 阪口塾については、コメントが多く、そのコメントを参考に勝手にブログに書くのは問題があるかもしれませんが、お許しください。

 私が阪口塾にいたのは小学校5年生の時、昭和42年でした。当時でも小学5年生からの入塾は遅く、基本的には4年生からの入塾となっていました。今の状態では入塾しても他の生徒についていけないということで、半年ほど家庭教師をつけて猛勉強してから、入塾しました。危惧されたように、案の定ついていけず、成績は最後まで中位から下位の当たりをうろついていました。

 私の通っていた難波小学校は、尼崎でも三和商店街に近い、いかにも尼崎という小学校で、その当時の雰囲気は小説家の宮本輝さんの「花の回廊」にくわしく書かれています。あらゆる階層の子供達が集まった雑多な学校でした。一学年6クラスあり、どういうわけか、私の学年からは4名、阪口塾に行っていました。一人は灘中学へ、二人は六甲中学で、一人は甲陽中学に進みました。全員、希望校に入ることができました。

 どうして息子を阪口塾に行かせようかと思ったか母親に聞くと、中学受験で非常に実績があることを他の生徒の親から聞いたことがきっかけでした。兄も私立中学校を受験しましたが、失敗し、そのことも要因かもしれません。阪口塾は20名くらいでしたが、同じ学校から4名は多いと感じていましたが、コメント(2007.8.3ブログのコメントを見てください)を見ると、阪口先生は昭和39年当時、尼崎市の竹谷小学校の教師をしていたようです。学校の授業終了後に職員会議をさぼって塾をしていたようです。つまり学校の教師と兼業して塾をしていたようです。当時の教師というのは左翼活動に熱心で、毎年メーデーの時は授業は半ドン、中学校の社会の授業はソ連のコルホーズ(共同農場)、英語の教師が教えた曲はジョンバエズの「勝利を我らに」でした。職員会議でも議題はもっぱら左翼活動のたぐいだったのでしょう。まともな教師はそんな状況に閉口し、失望したのでしょう。私が通っていたのは大阪の出来島の元牛小屋が教室でしたが、そこは先生の自宅だったようで、昭和40年以降に小学校の教師をやめて塾一本でやるようになったようです。そう考えると、私が行っていた昭和42年当時は、本格的な塾経営をしてそれほど経っていないことになります。教室をみると、ぼろぼろなので、そうとは知りませんでした。

 出来島は阪神尼崎から西九条線に乗り、2駅目だったと思います。駅から降り、線路沿いに歩いて5分くらいのところに塾があり、周りの殺風景な工場街でした。授業は週3日ほどで、最初に試験があり、その結果で席順が決められます。生徒の多くは近所の子と尼崎の子で、授業は6時ころから始まり、9時ころまで続きました。帰りはみんなで電車に乗って、阪神尼崎駅でバイバイです。その後、自宅に帰り、夕食を食べて、2時ころまで勉強するという感じです。

 尼崎の小学校の先生というのであれば、生徒に尼崎の子が多かったという疑問は解けました。昭和44年ころには自宅も西宮の門戸厄神に移り、そこにも塾を開設し、一人では授業できないので、分担して何人かの先生で授業をしていました。先生はもっぱら算数を中心にしていたようです。そのうち、評判が高まり、生徒も多くなり、灘中学も30名以上入るような阪神間でも有名塾となり、西宮、芦屋、尼崎からの生徒も多くなり、高校受験の入江塾、中学受験の阪口塾という伝説ができたわけです。

 コメントを見ていると、私だけでなく、何十年も前のことをはっきり覚えている塾OBの多さに驚かされます。私の二人の娘も中学受験、大学受験のために近くの塾に行かせましたが、阪口塾のような熱心なところはありません。時代の流れかなあとも思いましたが、阪口先生の経歴をみて、改めて、先生の教育への熱い情熱がわかりました。今の小学校の先生で、教職を捨て、自分の理想な教育ができる場を作ろうと考えている先生はいません。おそらく尼崎のような教育レベルの低いところの教師をしていて、才能があってもその才能を学校授業では十分に伸ばせることができない葛藤が塾の経営に向かわせたのでしょう。


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