2015年5月31日日曜日

矯正器材について


 矯正治療に使う装置、材料は、矯正専門の器材屋から買うため、一般歯科の器材屋さんからモノを買うことは少ない。

 矯正治療はもともとアメリカで発展したものが多いため、その器材もアメリカの会社が多い。主要な器材屋を述べると、アメリカの会社が、オームコ、ユニテック、アメリカン・オルソドンテックス、日本の会社はトミー、サンキン、ドイツの会社はフォレスタデントなどがある。どこのメーカーも古く、少なくとも50年以上は経っているだろう。

 一般の方に説明するのは難しいが、例えばブラケットひとつについても、上の中切歯、側切歯、犬歯、第一小臼歯、第二小臼歯の5種類の左右があり、下については中切歯、側切歯は同じだか、犬歯、第一小臼歯、第二小臼歯の4種類の左右、全部で18種類がある。さらに溝の太さにより0.018インチと0.022インチの2種類がある。テクニックによりトルクやローテーションが違うため、同一のブラケットにより数種類の違いがあるため、白いタイプのセラミックのブラケットだけで、数十種類のブラケットがあることになる。金属製、セラミック、プラスティックなどの色々なタイプのブラケットがあるため、これらを総合すると、ブラケットの品目だけで数百種類あることになる。業者のカタログをみると、ブラケットの項目だけで20-30ページになるため、営業マンもこれを覚えるまでに数年かかる。さらにブラケットの違いや欠点、治療方法などを十分知るためには長い期間がかかるせいか、転職する場合もやはり矯正材料の会社にうつる場合が多い。

  ブラケット以外にもチューブやバンド、ゴム製品、ワイヤーなどのこまごまとした商品があるため、矯正材料のカタログは厚い。こうしたカタログが各社ごとにあるため、その中で自分の臨床で使うものを探すのは結構難しく、このカタログを読めるようになるまで矯正科の医局に入局して少なくとも2年はかかる。とても一般歯科の先生が理解するのは難しいだろう。

 こうしたこともあり、矯正材料屋の営業形態は実に古いタイプのもので、営業マンが各々の矯正歯科医院を尋ねていき、そこで新製品の説明をする。気に入ったものがあれば、試しに買ったりする。どのメーカーも年に2、3度きてくれる。あとは学会で大きなブースをもち、そこで説明、注文を受ける。今のようにインターネットのない時代、2030年前まで学会開催時はセール期間だったこともあり、会期の2、3日で一年の売り上げの1/3から1/2を稼いだので、熱気を帯びていた。

 矯正材料のメーカーは、アメリカの会社が多いといったが、日本の会社も日本だけで売っているわけでなく、ほぼ世界中で同じ商品が売られ、カタログそのものがアメリカのカタログを日本語訳しただけのものもあった。そのため、欧米の矯正医と話しても、こと矯正器材については全くお互いに違和感はない。先日、アメリカの矯正医に患者を紹介したが、こちらで使っていたブラケットをそこの矯正歯科医も使っていたため、そのまま継続して治療することができた。逆の場合もあり、海外に紹介する場合は必ず、商品名を細かく記述するし、それでお互い十分に理解できる。

 治療法だけでなく、治療器材も世界中でほぼ同じものが使われているため、矯正歯科医同士は非常に話が合い、そうした点では言葉の問題がなければ、世界中で治療は可能であり、例えば、私がアメリカの田舎の矯正歯科医院で勤務しても、おそらく30分ほど、器材の説明を受ければ、すぐに治療はできるだろうし、逆もそうであろう。弘前のような田舎にも、アメリカから治療継続できた患者さんは10名以上、韓国、ベトナム、中国などアジア諸国からの治療継続患者もいるし、逆にアメリカへ紹介した患者も5、6人いるが、治療法、装置で困った経験はない。矯正歯科臨床は非常にグローバルなものである。

2015年5月27日水曜日

明治期の女医 外国医学校組


 最近でこそ、女性の社会進出は著しく、例えば医学部、歯学部でも私の時代は女子学生の比率は1割程度であったが、近年はほぼ40%-50%になってきている。女性経営者、政治家についてはまだまだではあるが、それでも会社での女性の地位は次第に高くなってきており、上司が女性であるということも、そう珍しいことではなくなった。これが戦前となると、女性の職業は先生か医者に限られていて、優秀な女学生は金がなければ師範学校、金があれば女子医専というコースに進んだ。今回の拙書「津軽人物グラフィティー」でも、こうした困難な時代、主として明治時代に生きた女性を多く扱ったが、ここでは明治初期の女医について少し話したい。

 日本最初の女医は、埼玉出身の荻野吟子であることはよく知られている。夫からうつされた淋病の治療を受ける際、治療する医師がすべて男性という屈辱的な経験を通じて、女医を志した吟子であったが、当時、女医になる道は全くなく、最初は東京女子師範学校に入学する。そこを首席で卒業したが、医師への志を捨てることができず、私立医学校、好寿院に入学し、3年間、男装して男子に混じり、医学を学び、最初は医術開業試験さえ受けることもできず、ようやく願いがかなったのは、明治17年のことで、翌年、後期試験にも合格して、ここに初めての女医が誕生した。

  女性の医籍登録、第一号がこの荻野吟子で、登録日が明治1812月で、二号は埼玉出身の生澤クノが明治20年3月、そして三号の愛知出身の高橋瑞が明治2011月となる。以降、女医になるためには、私立医学校(予備校のようなもの)で勉強して、医術開業試験に合格する方法が主流となっていく。医籍登録の25番目まで、済生学舎出身が18名、好寿院が2名、成医会医学校が1名、不明が2名、そして外国医学校卒業が2名となる。さらに26番から50番までみると、不明の1名を除くと、すべて済生学舎出身となる。51番から75番をみると、13名が済生学舎、不明が8名、大阪慈恵が2名と、外国医学校が2名となる。76番から100番までみると、やはり済生学舎が9名、大阪慈恵が9名、関西医学院が2名、その他が3名、外国医学校が1名と、関西方面の医学校からの女医が増えてくる。明治期の女医のほどんどは私立の医学校で学び、開業試験を受けたが、一部は外国の医学校を卒業したものがいた。ただ明治37年には医術開業試験を10年後に廃止することが決定したため、正式な医学校の卒業生でなければ医者となれなくなり、済生学舎も明治36年に廃校した。

 当時、外国の医学校を卒業したものは、自動的に医者になれたので、医術開業試験に合格して医者になる方法以外に、海外に行って、そこの医学校を卒業する手もあった。明治期、実際にそうした方法をとった女性たちもいた。岡見京は明治22年、ペンシルベニア、菱川ヤス(神奈川)が明治24年、阿部ハナ、須藤カクが明治31年4月、井上友子は明治36年3月、ミシガン、登録177番の明山(中川)もと、曽根(相沢)操がペンシルバニアで明治43年に医師となった。その後は、女子医大ができたこともあって、外国医学校組はほとんどいない。

 岡見、菱川、阿部、須藤はすべて横浜共立女学校を卒業してアメリカの女子医学校で学んだことはすでに、このブログで述べた。井上友子は長崎の活水女学校を卒業後、福岡英和女学校に勤務したが、その後、渡米して、クリーブランド医大、ミシガン大学医学部で学び、医師となった。曽根(相沢)操は、明治18年に岩手県胆沢郡金ヶ崎町の牧師の娘として生まれ、尚絅女学校(仙台)、同志社高等科を卒業し、明治398月に中川もとと一緒に渡米し、9月のペンシルベニア女子医学校に入学、43年に卒業後、帰国し、医籍登録をした。中川もとに関しては、兵庫県出身、同志社高等科在校時に選ばれ、相沢操と一緒に渡米したことのみがわかっている。

「横浜山手病院について 12 横浜婦人慈善会の発足まで」(内田和秀、聖マリアンナ医科大学雑誌、42.2014)によれば、1888年、ヴァンペテン、稲垣寿恵子、二宮わか、および平田平三牧師らが中村八幡谷戸と呼ばれる貧民窟を視察したのをきっかけに、1889年に100名程の会員が集まり、横浜婦人慈善会が発足した。初代会長は稲垣寿恵子、副会長には平田かく(平田牧師の妻)、会計には二宮わかが就任したとある。稲垣、二宮はともに横浜共立女学校の卒業生で、岡見、菱川、阿部、須藤とも親しく、後に婦人慈善会病院(根岸病院)の発足に際して、菱川、阿部、須藤らが勤めたのは当然であった。さらに平田平三牧師は弘前出身で、その妻、もと(上記かくは間違い)は山鹿旗之進の妹で、これも弘前出身、その点で、須藤かくとは同郷であった。

2015年5月22日金曜日

「津軽人物グラフィティー」発刊しました




 本日、出版社の北方新社より製本された著書受け取りました。何度も校正したので、中身はもう読む気にはなりませんが、きれいに仕上がっており満足しています。

 500部印刷し、100部は自家用で、残り400部を一般書店で販売する予定です。皆様に買っていただければ、うれしく思います。前回の「新編 明治二年弘前絵図」同様に、紀伊国屋書店弘前店をメインに販売してもらう予定です。来週の水曜日頃から書店に並ぶと思いますので、ご希望の方は早めにご購入ください。また紀伊国屋書店では予約もしてくれると思いますので、確実に手に入れたい方は、お電話でご予約いただければと思います。

 自費出版ですが、母の著書も含めて4冊目となりますので、いざ本ができてもさほど感激はないのですが、それでもこうして改めて本という形になるとうれしいものです。昨今、デジタルブックという形で、紙媒体を使わない方法もありますが、やはり本という形になった方が実感としてはうれしく思います。

 内容については、このブログで書いたものをこの4か月くらいでまとめたのですので、すでにお知りになったいるかもしれません。それでも、これまであまり知られていない郷土の先達について書いたつもりです。タイトルには津軽人物となっていますが、90%は弘前出身者のことです。一部、弘前出身以外のひとがいるため、こういったタイトルにしましたが、続編では積極的に弘前以外の人物を取り上げたいと思います。

 歴史学者、郷土史家のような学問的な詳細な書き方はしていません。通常は引用した箇所については、その出典をきちんと書くべきですが、自分の体験上、連続して読める方がいいと判断して、細かく、出典については述べていません。そのため、無意識ですが、原出典をそのままコピーした箇所があり、学者では致命的なことになるかもしれませんが、まあアマチュアの適当な本ということでお許しいただきたいと思います。それでもこの本で、初めて知ったということは多少あるかと思いますので、それでよしとおおらかな気持ちで考えていただければ幸いです。

 どれだけ売れるか内心では不安ですが、早く400部売り切れてほしいところです。定価は1800円と高いのですが、自費出版をした人はわかると思いますが、これでも赤字です。よほど部数を印刷しないと安くはなりません。まだまだ内容については、不十分で、一番悔やまれるのは、女医、阿部はなのことです。Camden図書館から阿部はなについての調査着手するとの返事をもらってから3か月過ぎていますが、まだ結果報告はなく、それを本書に載せられませんでした。できれば、あとがきにでもその結果を載せられればと思っていましたが。

2015年5月20日水曜日

NHK ドキュメント72時間 「駄菓子屋 子どもたちの小さな宇宙」



 NHKの「ドキュメント72時間」は好きな番組である。先週の番組は兵庫県の兵庫区にある小さな駄菓子屋さんの72時間を追ったもので、そこは子供達、昔の子供達が集まる「小さな宇宙」がある。店主のねえちゃんの人柄に引かれて多くの子供が集まり、けんかしたり、ぐちを言ったり、さみしさを紛らわしたり、人生の夢を語ったりする。障害を持った兄ちゃんも登場し、2、3畳の小さな駄菓子屋の中には人生、社会の縮図を見る。

 子供のころ、近所にもこういった店がたくさんあった。家の4軒隣のばあさんがやっていた駄菓子屋が本拠地で、他にも3軒ほどあった。また ちょぼ焼きといって、10cm×15cmくらの鉄板に10個ほどの穴が開いており、そこにたこ焼きの粉を入れ、天かす、しょうがなどが入った食べ物を出すところもあった。

 私がもっぱら遊んだ幼稚園から小学3年生当時、昭和30年代の尼崎の駄菓子屋を思い出そう。入り口は開放され、小さな駄菓子屋は畳一畳くらいで、たいていは婆さんが奥にいて、手前に置いてある駄菓子を子供たちが選び、買う。子供は親からこづかいとして10円をもらい、一個1円から5円くらいの駄菓子や、人気のあったのはくじ付きの駄菓子であった。そのひとつに、ベロベロというものがあった。これはわらび餅で、一回のくじが1円で、まずこれで5回引く。当たれば大きなベロベロがもらえるが、大抵ははずれで子供の舌くらいのサイズのベロベロを新聞紙に入れ、そこにきな粉をかけてもらう。その後5円で黒豆の入った袋くじを引き、これも当たれば大きな袋入のものがもらえる。あっという間の10円の買い物である。他には紙にニッキで絵が描かれ、それを舐めるという菓子(ニッキ紙)や、試験管の細いようなものに得体のしれないジュース、ゼリーが入っていたものや、それを改造した透明のストローの中にゼリーが入ったものがあった。いずれも今考えるととんでもないものが入っていて、体に悪かっただろう。少し大きな駄菓子では、子供の遊び道具、ベッタン、ベーゴマや銀玉鉄砲、その玉、竹ひご飛行機なども売っていた。また店の片隅には鉄板があり、小麦粉の溶いたものに少しのキャベツと赤しょうがを入れたお好み焼きも一枚10円くらいで焼いてくれたが、10円のこづかいではめったに買えなかった。

 こづかいは毎日、10円。たまに友人の家に行くと、そこでも10円玉をくれたりしたし、どういう訳か家には大きな神棚があり、さらには賽銭箱があった。それを逆さにすれば、金がでてきたので、親にばれない範囲で230円ちょろまかした。他には近所のタバコ屋に親父に頼まれ、「いこい」は「ハイライト」を買いに行くと、釣りを小遣いとしてもらった。100円ほどになると、小学校近くの文房具屋でプラモデルの飛行機を買ったし、その後は、「プラモデル作りは歯医者になるにはいい訓練になる」と親父、お袋に気づかせ、その度に500円くらいせしめ、そういった折には三和商店街の奥にあった「コンドル」という模型屋でもっと大きなプラモデルを買った。


 毎日、毎日飽きもせず、こういった駄菓子屋に行き、遊んだ。幼稚園、小学校低学年は、近所の空き地で、「東京けんぱ」、「サザエさん」、「ベッタン」、「ビー玉」などをしたが、小学3,4年以降になると、ゴム鉄砲、銀玉鉄砲、三角野球や週刊漫画誌の回し読みとなった。そろばん、習字などの塾以外の時間はすべて遊んでいて、勉強は一切しなかったが、こういった環境に危惧した親が小学校5年生のころから進学塾に行かせるようになると、一変して勉強浸けの毎日となった。それでもプラモデルとマンガだけはやめられず、高校生ころまで続けていた。

2015年5月14日木曜日

日本画 掛軸の暴落2





 前回、オークションで購入した土屋嶺雪の「唐美人とオウム図」がきた。なかなかいい作品で、床の間が明るくなる。

 時折、ヤフーオークションの「日本画 掛軸」で検索して、いい作品があれば、贋作かどうかチェックしてから購入する。

 近藤翠石についてはこれまで4本の作品を購入し、落款、署名、画風は周知しているので、まず贋作を掴むことはないし、落札価格もせいぜい3000円から1万円程度なので、こずかいでも買える額である。こういった価格帯になると偽物も本物も値段に違いはなく、どちらも安いので、情報が要となる。

 今回の土屋嶺雪についても、たまには美人画ということで、着目した。全く名が知られていない作家なので、まさか贋作はないだろうとは思うものの、それでも一応、インターネット上で検索した。

 ちょうど、インターネット上で、沖縄県立図書館の貴重資料デジタル書庫に土屋嶺雪の「漁翁図」(上記写真)が紹介されている。そこで、画風について確認する。この作家は西洋風の画風に、長い賛をつけるのが特徴である。ほぼ似通った画風であり、今回のオークションの方が書き込みが多い。偶然だが沖縄県立図書館の作品と今回の作品は発亥12年(大正12年、1923年)の作品であることから、同時期のものである。時期により署名、印は異なるが、同じ時期の作品なら署名、印は同じとなる。

 そこで次に印について調べた。作品に上下二箇所に「周龍起雲」と「嶺雪」の印があるが、全く一致する(下記3写真)。さらに署名「嶺雪散士」もほぼ一致する。ただ気になるのは、印が署名の上に押されている点で、一般的にはこういったことはしないし、作品婦人のスカート部に明らかにシミではない墨の点がある。署名時に墨のしずくが落ちたのだろう。初歩的なミスである。ああやっちゃったという感じだろう。多少の疑問はあるが、ほぼ90%は本物と考えて購入した(15000円)。若干高く、3000円くらいで購入できれば、さらによかった。

 沖縄県立図書館の解説を挙げる
嶺雪は詳細不明の近代の画家で、橋本関雪(かんせつ)に学んだこと等が伝わっています。老人や魚、少年の描写は活き活きとした輪郭線や均一な色面(しきめん)による伝統的な日本画の技法が見られ、犬の立体的で写真に近い描写には西洋絵画の伝統がうかがわれます。画面左下の署名落款(らっかん)から、この絵が大正12年(1923年)夏に和歌山県(和歌山城周辺)で描かれたこと、画家が東京に住んでいることなどが分かります。

 国立図書館の近代デジタルライブラリーで大正期、昭和期の画家を検索してもほとんど名がでないが、兵庫県、高砂市出身の画家のようだ。こういった賛のある画(富岡鉄斎が有名)は賛を読んで、作品を楽しんでほしいという作家の気持ちがあるようなので、少しずつ解読したいと考えている。