2016年8月8日月曜日

武宮隼人先生 4

Karl Rahner 20世紀を代表する神学者


 来月、神戸で還暦の同窓会があり、その時に少し武宮校長のことを印刷して渡そうかと思い、まとめている。ただ時間がないため、かなり間違いも多いかと思うが、その後の調査結果を少し、述べてみる。


 武宮一(はじめ)が武宮丹治と同一人物、維新後に改名したのかは、まだはっきりしておらず、現在、鳥取県立図書館に問い合わせ中である。島根市の武宮家の菩提寺、上町観音寺に門弟が建てた碑があるようなので、その碑文を知りたいところである。それでも父であるという可能性の方が高いので、「追悼 武宮隼人先生を偲びて」よりライフ先生の追悼文以外の文を提示したい。



 ひとつは、私が在校時に日本史を教えていただいた阪上秀太郎先生の文章に、『先生の家は鳥取池田藩の武士の出である。武宮家は藩の砲術指南役を代々勤め、あの有名な鳥取砂丘はその演習場であったということである。先生の父上は武士として明治維新を経験されたが、根っからの侍であった尊父は、新しい時代に士魂を捨てて順応しようとされなかったらしく、家は貧しく、一家の支えはもっぱら母上がなさったようです。父親は“孤雲”という、殿様より与えられた俳号を愛する俳人として一生を終えられたらしい。士風を保ち続ける狷介不屈の夫に仕えて一家を切り盛りした母上の姿を、先生は美しいもの、すばらしいものとして幼少の頃から強く脳裏に焼き付けられたのであろう。母上は一言の文句もいわず侍としての生涯を送った夫を尊敬し、いたわり、末子であった武宮先生を含めて十人の子女の養育にあたられたのである。また父上も妻の苦労を口に出さないながら、感謝しつづけ、老年に至って息を引きとる最後のきわに、はじめて妻に詫びと感謝の言葉をもらされたそうである。』(同上、「武宮先生を想う」)とある。

 またこの母について、英語のペンネ先生こと、吉川浩一郎先生の回想によれば、『先生のお母様のことをよくご存じの方から伺った所によりますと、先生のお母様は、東京築地の教会で有名な熱心なカトリック教徒で、経済的に御不自由なため、髪をひつつめに結び、洗いざらしの湯衣を着、背中に一人、両手に一人ずつのお子様の手を引いて、堂々と御聖体拝領台に進まれる御姿は、まことに天晴れだったそうです。』(「武宮先生の思い出(人間・武宮先生=僕の武宮先生)」とある。


年譜によれば、

1905年  四月、芝南桜小学校入学
1913年  三月、麻布小学校卒業 四月、独逸協会中学校入学
1919年  四月、上智大学予科入学
1921年  三月、上智大学予科修了 この年、一年志願兵として兵役に就き、翌年陸軍少尉に任官退役
1921年  八月、イエズス会入会
1923年  九月、オランダ、セーレンベルグ専門学校入学、教育学を専攻
1925年  九月、オランダ、フルケンブルグ大学入学、哲学・神学・教育学を修める(1933年、八月まで) 
1931年  四月二十七日、司祭叙階
     十月、ローマ、グレゴリアン大学より哲学博士の学位を受ける。
1933年  八月、ドイツ、フライブルグ大学入学、教育学を研究
1935年  フライブルグ大学を終えて、八月帰朝
1936年  四月、上智大学教授となる
1937年  十一月、財団法人六甲中学校理事となり、同校校長に就任

 独逸協会学校は、明治十六年(1883)にできたドイツ語を中心に教育したユニークな学校で、当時は旧制第一高等学校への進学者も多かった。現在の独協学院である。旧制一高を受験するも失敗し、兄の武宮雷吾(1898-1983、フランシスコ会、札幌光星中学校、高等学校初代校長)によれば『隼人神父が旧制高校の試験を受ける時、兄は弟を政治家にしたい考えがあった。けれど私は試験に落ちて司祭になる事を勧めた。弟はその後、上智大学に入学した。』(同上、「弟、隼人神父の想い出」)と兄が在学していた上智大学に進学した。

 イエズス会の上長で上智大学学長のヘルマン・ホフマンはイエズス会入会を希望し、ドイツ語の上手な学生3名をイエズス会の司祭職への準備段階をすごすためにオランダ国境に近い修練所へと送った。その中で一番若かったのが武宮先生で、ドイツ語の得意だったので、授業にはさほど苦労はなかった。ただドイツ、アーヘンに近いファルケンブルグでの哲学の授業はラテン語で行われていたため、相当に苦労し、胃の工合も悪くなったようだ。結局、ラテン語の講義を最小限にしてもらい、もっぱらドイツ語の神学的な文献を読み漁った。20世紀を代表する神学者で、カール・ラーナーは同級生であり、その友情は終生続いた。そしてラーナーの著書を死の直前まで勉強した。上智大学で哲学、教育学を教えることになっていた武宮先生は、その後、ドイツのフライブルグ大学に移り、教育学を専攻したが、同級生のラーナーの紹介で、ハイデッカーのゼミナールに連れて行ってもらったりした。当時、ハイデッカーはフライブルグ大学の教授をしていた。帰国後は上智大学の神学部教授となり、六甲中学校開設とともに初代校長となった。

追記:鳥取県立図書館からの回答が来ましたので、一部掲載します。ご協力いただき、たいへんありがとうございました。

1。武宮一(はじめ)=武宮丹治 かについては、わからないとの返答でした。
2。維新以降の武宮家については、「藩士家譜」には二軒の武宮家が明治初年段階であるようです。
 ・武宮丹治家譜 慶長年中ー明治四年 一旦断絶、元砲術家
 ・武宮八郎家譜 宝永七年ー明治四年 元苗字植木、一旦断絶
 武宮八郎については、どのような人物かはわかりません。



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

やはり、武宮さんは旧制一高受験でしたか。
何となく、旧制高校、なかでも一高には尊敬の目をお持ちだったような気がしました。

昔、ある日の朝礼で、野球部の連中の勉強の成績が悪いと叱咤激励して、「イチコウは野球も勉強も一番だった」とのたまい、私は当時旧制一高のことなど知らず、神戸で「イチコウ」といえば神戸市立工業高校をさしていたので、校長は何を変なことを言ってるのかと思い、友人に話すと「あれは旧制一高のことだ」と教えてもらった記憶があります。
神父の道には進まれたものの、何かしら一高的な物へのあこがれがおありになったのかと。

広瀬寿秀 さんのコメント...

ライフ先生の追悼文では、武宮先生は旧制一高の一次試験には通ったようですが、二次試験の作文の出来が悪くて落ちたようです。当時の受験は、浪人もあったようですし、ナンバー校を下げれば、どこかの高校には入学したと思いますが、やはり母、兄の影響により神学への興味が強く、上智大学に進学したように思えます。上智大学に進学するということは、信仰の道に入ることを意味し、貧窮の家庭で兄の援助を勉強させてもらっている立場からは実生活でのエリートの道、一高への進学は当然の思いなのでしょう。かなり葛藤があったと思われます。