2016年9月5日月曜日

武宮隼人先生 5

六甲学院新グランド(人工芝)

 武宮隼人初代校長
(1905—1980)

           
 学校、とりわけ私立学校はその創始者の理念、思想が色濃く反映されている。六甲学院は昭和十二年(一九三七)、日中戦争が始まった年に設立され、その初代校長として就任したのが、三十七歳の武宮隼人であった。戦時色が次第に高まり、カトリック系の学校としては最も厳しい時代であった。
 武宮校長については、自身で語ることも、書くことも少なかったため、「追悼 武宮隼人先生を偲びて」(昭和五十六年、六甲学院)や「六甲学院 五十年のあゆみ」(昭和六十二年、六甲学院)などで、一部、知ることができるだけで、その経歴についてはあまり知られていない。そこで「追悼 武宮隼人先生を偲びて」の中から、K・ライフの「六甲中学校創立のころ」と巻末の年譜を中心に六甲中学就任までについてまとめてみた。ライフ先生は、武宮先生とはイエズス会の三年後輩だが、ドイツの神学校、上智大学、六甲中学校、昭和二年から五十六年までの五十四年間におよぶ親友で、武宮先生のことを最もよく知る人物である。六甲学院の創立時、副校長格で武宮先生の補佐役を勤め、戦後上智大学に戻り、神学部教授、神学院院長などを勤めた。

 『武宮師の武士道精神は、父親の遺産であった。鳥取の鉄砲隊長であり、明治維新後は、東京築地に移り庶民階級のしっかりした若妻をむかえ、警察署で剣道の指南をつとめた。旧制六甲中学校で剣道がどれ程重んじられていたかは、終戦後六甲中学校に入学した卒業生はよくおぼえている。初段、二段、三段までの資格をとった生徒も居た。教育上の理由で柔道にはあまり関心は持たず、したがって柔道の先生はつとめなかった。
 「キリシタン」として隼人師は二代目の信者にすぎなかったが、明白な証明はなくても自分の先祖が大分から鳥取に来たので、(そこには武宮という町もある)彼等がキリシタン時代にそこに居てキリシタンであったことは彼は確信していた。とにかく東京の下町に住んだ時代に全家族のキリスト教信仰への道を開いたのは武宮師の父ではなく、その母であった。求道者のなった彼女は洗礼準備が済むと二、三人、その時まで生まれた子供と共に、主人にはだまって洗礼を受けた。彼は最初の怒りがおさまった後、妻の祈禱書を好奇心にかられて読み、十字架の道行きの祈りに不思議に感激してしばらく後、妻には何も云わず求道者となり洗礼を受けた。係りの神父に妻からキリスト者として紹介されたのである。当時の彼の生活は、きわめて貧しかった。十人の子供達、その年長者たちは、小学校を卒業して社会に出たが、勤勉な働きによって、たくわえた財産によって、下の子供達に高等教育の道をひらいた。末っ子の隼人は、三男にあたる兄を自分の真の恩人として尊敬していた』(「追悼 武宮隼人先生を偲びて」より)。

 鳥取藩の砲術家業家の筆頭に武宮家がある。先祖の武宮親実は、豊後大友氏の支流で、キリシタン大名の大友宗麟(義鎮)に従い、砲術を以て仕えた。天正十四年(一五八六)の島津軍による臼杵城攻防戦では、武宮親実はポルトガルから購入した「国崩し」と呼ぶ大砲で島津軍を退散させ、その武功が世に知られた。大友家の滅亡後、親実の三男、久兵衛は姫路藩、池田輝政に仕え、さらに慶長十八年には鳥取藩の宗家にあたる池田忠継の臣下となり、大阪冬の陣には砲術を以て参戦した。この武宮久兵衛を鳥取藩武宮家の祖とする。
 幕末には、五百石を給された大筒頭の武宮貞幹(さだもと、丹治、甚之進)がいた。貞幹は砲術指南の武宮雅楽允(権之丞)の子で、安政五年(一八五五)にお台場築立御用掛に任命されると和田勝蔵、加須屋右馬之丞とともに水戸藩士、福地政次郎から神発流砲術を学んだ。さらに鳥取藩主、池田慶徳の命により境台場、由良台場などの鳥取藩台場の築城に携わった。境台場の建造においては文久年(一八六三)から富山敬蔵の設計の元、会見郡大庄屋、山根作兵衛らとともに築城を開始し、明治元年(一八六八)十一月に完成した。その間に、父が眼病のために引退すると、慶応二年(一八六六)には家督を継ぎ、戊辰戦争では「武宮貞幹の砲術 後戊辰役の際、自ら大砲隊を率い。大阪から海路江戸に至らんとし、暴風に遭ひ遂に機に後れ、戦役に画すこと能わずして帰国した。」(鳥取県郷土史(一九三二))となっており、砲術大隊長として直接、戊辰戦争に参戦することはなかった。
 年譜によれば、武宮隼人先生は、「一九〇五年二月十九日に東京市麻布に父武宮一、母えまの九男として生まれ、霊名フェリックス」となっており、武宮貞幹が維新後に改名して一(はじめ)と名乗ったのであろう。ただ水戸への砲術留学を十五歳、家督を継いだのが二十六歳としても、武宮隼人先生が生まれたのが六十歳となることになる。いくら九男一女をもうけたといても、よほど晩婚であったか、先妻がなくなり、後妻としてえまをむかえたのかもしれない。高禄の士族が独身であったとは考えにくいし、庶民階級の娘を嫁にすることはない。維新後、禄がなくなり、困窮した士族は多く、武宮一もつてを頼って上京し、警察署で剣道を教えて細々とした生活をしていたのだろう。六甲学院の教師、阪上秀太郎先生によれば、『先生の家は鳥取池田藩の武士の出である。武宮家は藩の砲術指南役を代々勤め、あの有名な鳥取砂丘はその演習場であったということである。先生の父上は武士として明治維新を経験されたが、根っからの侍であった尊父は、新しい時代に士魂を捨てて順応しようとされなかったらしく、家は貧しく、一家の支えはもっぱら母上がなさったようです。父親は“孤雲”という、殿様より与えられた俳号を愛する俳人として一生を終えられたらしい。士風を保ち続ける狷介不屈の夫に仕えて一家を切り盛りした母上の姿を、先生は美しいもの、すばらしいものとして幼少の頃から強く脳裏に焼き付けられたのであろう。母上は一言の文句もいわず侍としての生涯を送った夫を尊敬し、いたわり、末子であった武宮先生を含めて十人の子女の養育にあたられたのである。また父上も妻の苦労を口に出さないながら、感謝しつづけ、老年に至って息を引きとる最後のきわに、はじめて妻に詫びと感謝の言葉をもらされたそうである。』(同上、「武宮先生を想う」)。またこの母について、吉川浩一郎先生の回想によれば、『先生のお母様のことをよくご存じの方から伺った所によりますと、先生のお母様は、東京築地の教会で有名な熱心なカトリック教徒で、経済的に御不自由なため、髪をひっつめに結び、洗いざらしの湯衣を着、背中に一人、両手に一人ずつのお子様の手を引いて、堂々と御聖体拝領台に進まれる御姿は、まことに天晴れだったそうです。』(「武宮先生の思い出(人間・武宮先生=僕の武宮先生)」。

年譜によれば、
一九〇五年  四月、芝南桜小学校入学
一九一三年  三月、麻布小学校卒業 四月、独逸協会中学校入学
一九一九年  四月、上智大学予科入学
一九二一年  三月、上智大学予科修了 この年、一年志願兵として兵役に就き、   
        翌年陸軍少尉に任官退役
一九二一年  八月、イエズス会入会
一九二三年  九月、オランダ、セーレンベルグ専門学校入学、教育学を専攻
一九二五年  九月、オランダ、フルケンブルグ大学入学、哲学・神学・教育学を  
        修める(一九三三年、八月まで) 
一九三一年  四月二十七日、司祭叙階
        十月、ローマ、グレゴリアン大学より哲学博士の学位を受ける。
一九三三年  八月、ドイツ、フライブルグ大学入学、教育学を研究
一九三五年  フライブルグ大学を終えて、八月帰朝
一九三六年  四月、上智大学教授となる
一九三七年  十一月、財団法人六甲中学校理事となり、同校校長に就任

 独逸協会学校は、明治十六年(一八八三)にできたドイツ語を中心に教育したユニークな学校で、当時は旧制第一高等学校への進学者も多かった。現在の独協学院である。武宮先生は旧制一高を受験するも失敗し、兄の武宮雷吾(一八九八-一九八三)、フランシスコ会、札幌光星中学校、高等学校初代校長)によれば『隼人神父が旧制高校の試験を受ける時、兄は弟を政治家にしたい考えがあった。けれど私は試験に落ちて司祭になる事を勧めた。弟はその後、上智大学に入学した。』(同上、「弟、隼人神父の想い出」)と兄が在学していた上智大学に進学した。
 戦前の予備、後備士官については、「陸軍後備役将校同担当官服役停年名簿」があり、大正十二年から昭和年までのものが公開されている。「武宮隼人」の名を探すのと、大正十五年では「大正十四、三、三十一少尉志 同十一、十二、一予備役」、「第一(麻布)正八」となっている。また昭和九年では「大正十四、三、三十一少尉志 同十一、十二、一予 四、四、一 後」、「麻布第一」となっている。一年志願兵という制度はドイツの制度を参考に明治二十二年(一八八九)にでき、官立学校、師範学校、旧制中学校などを卒業したものに対して、装備、武器、弾薬などは部隊から支給されるものの、それ以外の食糧、被服、装具などは自己負担とし、年の入隊を許可される制度である。最初のか月で上等兵に進級し、下士官と同様に勤務し、満期の暁に学科と実地の試験を受けて予備役の二等軍曹となり、除隊する。武宮先生の場合、大正十一十二日に予備役となった。予備役編入の翌年に最低三か月の予備役見習士官として勤務演習した後、最後に試験が行われ、それに合格すると予備少尉となる。武宮先生は、大正十四年三月三十一日に予備少尉になったことになり、さらに予備役は年間と決まっているので、昭和日には後備役となる。後備役は年間で、昭和十五年に予備役と後備役が一緒になり期間も陸軍で十五か月となる。
 イエズス会の上長で上智大学学長のヘルマン・ホフマンはイエズス会入会を希望し、ドイツ語の上手な学生三名をイエズス会の司祭職への準備段階をすごすためにオランダ国境に近い修練所へと送った。その中で一番若かったのが武宮先生で、ドイツ語の得意だったので、留学自体はさほど苦労はなかったが、ドイツ、アーヘンに近いファルケンブルグでの哲学の授業はラテン語で行われていたため、相当に苦労した。そのため胃の工合も悪くなったが、結局、ラテン語の講義を最小限にしてもらい、もっぱらドイツ語の神学的な文献を読み漁った。二十世紀を代表する神学者で、カール・ラーナーは同級生であり、その友情は終生続いた。そしてラーナーの著書を死の直前まで枕元に置き、勉強した。上智大学で哲学、教育学を教えることになっていた武宮先生は、その後、ドイツのフライブルグ大学に移り、教育学を専攻したが、同級生のラーナーの紹介で、哲学者のハイデッカーのゼミナールに連れて行ってもらったりした。当時、ハイデッカーはフライブルグ大学の教授をしていた。
 昭和十年(一九三五)に十二年間に及ぶ、オランダ、ドイツ留学を終え、帰国し、そのまま上智大学で教えていたが、昭和十二年(一九三七)に六甲中学校創立に伴い初代校長と任命された。武宮先生には姉(ゆき、ルシア)がいたが、姉の嫁ぎ先は東北大学理学部長で地質学者の高橋純一(一八八一-一九五九)で、後に新制信州大学の初代学長となった。彼もまた熱心なキリスト教徒であった。
 武宮隼人先生は、士族、軍人、神父、学者、教育者と多面な顔を持ち、六甲学院に在籍していた二十八年間に、現在に続く便所掃除、中間体操、強歩大会、立山キャンプ、瞑目、訓育などの学校の礎を作った。他校に見られぬ六甲学院のユニークな行事は、こうした武宮先生の理念、思想が色濃く反映されている。私が入学した昭和四十三年当時、中高生全員が坊主頭で、黒い風呂敷に教科書を入れて通学していた学生もいたし、学校までの坂道で上級生を追い越す時は、必ず帽子を脱いで挨拶しないと睨まれた。詰め襟はきちんと締め、学生帽も必ず着用、学校に行くと体操服に着替えるなど、当時の社会でもこうした学校はあまりなく、ミッションスクールらしからぬ時代錯誤的な感触を持っていたが、こうして初代校長の経歴を知ると、ようやくしっくりと納得する。                                (三十二期 広瀬寿秀)

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