2017年4月26日水曜日

弘前城の築城

真ん中岩木川の右に弘前城城郭がある。弘前台地の縁
大浦城は左の茶色(台地)の川右



茶色は台地、黄色は扇状地、青色は氾濫平野


  弘前は慶長八年(1603)に堀越城主津軽為信が鷹岡に築城計画をし、為信の死後、二代藩主信枚が計画を継承し、慶長十四年(1610)より築城工事が開始され、翌年に完成し、寺社、家臣団、商人が移住した(Wikipedia)。

 津軽為信にとって城とは、外敵からの防御のためのもので、そうした観点からはそれまでの居城であった。大浦城、堀越城ともに西側に狭い川があるだけで決して防御に向いた城ではなかった。

 理想的な城とは、城郭を取り巻く三方が海または川で囲まれ、一方のみ開放されていて、なおかつ周囲より高台にある場所がよい。さらに城郭に井戸を掘れ、水の確保ができなくてはいけない。岐阜城のような山城は高さによる防御メリットはあるものの、平時では登城には苦労したため、戦国時代が終わると、多くの城は川、あるいは海沿いの平野部に作られ、周囲の堀に水を引いて、防御性を高めた。城下の一方に川があり、そこから給水をして、四方を堀で囲う方法が一般的であった。

 弘前市堀越にあった堀越城は、東は平川、北は大和沢川があり、平川から水を引いて堀を作ったが、平川近くの標高が36mに対して城があった場所の標高は40m、東側のみ4mほど低いが、それ以外の周囲は40m前後で、平坦となっている。また弘前市賀田にある大浦城は、北と西に後長根川が走り、一応は弘前台地の端にあるのだが、周囲の標高はほぼ40mで、これも平坦な場所であり、逆に西は高舘山(233m)に向かって標高は高くなり、西側から見下ろす位置にあたる。

 それに対して、弘前城は、弘前台地の末端にあり、西に岩木川、東には土淵川がある。ことに西側の高低差は大きく、城内市民会館あたりに標高が43mに対して、馬屋町、弘前工業高校当りでは35mとおよそ10mの高低差がある。また北の亀甲町の標高は29mに対して二の丸付近で35mと6mの高低差がある。さすがに東方面、南方面の高低差はほとんどないが、それでも土淵川周囲は氾濫平野部となり、城のあった弘前台地とは堀のような存在となっている。

 国土地理院の治水地形分類図は、こうした台地、氾濫平野、扇状地などが色分けされており、さらに地理院地図(電子国土Web)ではカーソル部の標高が出せるので、弘前城、大浦城、堀越城を地理的条件で比較できる。その結果を見ると、明らかに弘前城は防御的な観点から他の二城よりは優れている。標高差のない南側には土淵川の支流に伴う氾濫平野があり、そこに水を貯め、池にすることと(南溜池)と別城となる禅林街を形成することで、防御性を高めている。観音寺付近は標高60mと高く、城近くにあれば、危険な場所であるが、離れているため、脅威とはならなかったが、城近くにこれより高い茂森山があったため、切り崩して、禅林街の土塁にしたのは当然である。また西にある岩木川の支流は防御としては重要ではあったが、度重なる洪水の元であり、西堀にし、安定させたのも納得いく。

 弘前城の誕生については、軍配者、沼田面松斎により長勝寺構、鷹岡、亀が岡の三候補から占術と四神相応の地として選んだとされているが、むしろ純粋に防御のための城としてここが選ばれたと違いない。そして寺社の配置などについてはある程度、方位に沿って建てられたと思われる。



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