2020年2月11日火曜日

懐かしい尼崎

尼崎市東難波町4丁目付近

難波幼稚園

 生まれてから高校卒業までの18年間、尼崎で暮らしたので、故郷といえば尼崎といってもよかろう。中学から神戸の学校にいったために、小学校の知人とは卒業以来、ほとんど会っていない。生活圏として尼崎を知っていても、地元で買い物したり、食べたり、飲んだりしたことは少ない。

 私の実家は、尼崎市東難波町というところで、実家の道隔てたところには、神戸山口組の古川組があり、警察が警備することも多い。昔、この事務所の看板が銃撃されたこともあり、道が閉鎖され、終日、警察官が見張っていた。子供のころ、この場所はクリーニング屋で、その前には幅1mくらいのドブがあり、よくおしっこの飛ばし合いをした。今は総合老人福祉センターになっているところは、昭和30年代まで、旭硝子の課長以上の一戸建ての家が並んでいた、今思えば贅沢だが、30坪くらいの玄関、小庭のついた平家の家が20軒くらいあり、課長以上の社宅となっていた。家の前の道は舗装されていない土の道で、車が通らなかったので、東京ケンパ、ママゴト、ビー玉やベッタンなどの遊びもここでした。子供達の遊び場が住む地域ごとに決まっていて、他のところで遊ぶには、そこに住む友人の許可がいった。車は少なかったし、土の道も多く、子供達の絶好な遊びであった。難波小学校の隣にある難波公園も子どもたちの遊び場で、ここでは銀玉鉄砲や2Bによる爆竹遊び、缶蹴り、コマ回しなどで遊んだ。また子供相手の紙芝居や粘土カタヤなどもこの公園で来て、子供たちが大勢集まっていた。家の裏には朝鮮人部落があり、高い木製の塀に囲まれた砦のようなところがあり、朝鮮人の数家族がここで暮らしていた。さらに十間道路には大きな尼崎天主堂があり、その裏には尼崎のシンボルであったガスタンクがあった。

 昔の中央大通りは百万ドルなどのキャバレーが立ち並び、夜になると多くの男性客で賑わい、ちょっとしたミニ難波のような雰囲気であった。昭和40年代が最も華やで、キャバレーに続き、立ち飲み酒屋やパチンコ店があった。近くには映画館やストリップ小屋などもあり、風俗店も多かった。三和商店街は、ラッシュアワー並みに多くの買い物客で賑わい、活気があった。ここではそれこそ何でもあり、肉屋、魚屋、電気屋、洋服屋、本屋からレストラン、喫茶店、食品店に至っては、乾物専門店、卵専門店、鶏肉専門など、食材により専門が分かれ、大阪の黒門市場に近かった。最初の変化は、阪神尼崎に尼センデパートができたことで、ここに少し大きなスーパマーケットや当時としてはしゃれた店が入った。それでも三和商店街の活気はビクともせず、以前とは変わらず、活気があった。その後、本通り入り口近くにダイエーができ、中央通りには長崎屋ができた。ダイエーは尼崎で最初の大型スーパーで、開業当初は人気があったが、その後、ディスカウントストアになり潰れた。長崎屋も衣料専門の大型店であったが、多くの犠牲者が出た火事により閉店した。その後は新しい店もできずに、次第に商店街そのもの客足が減ってきて、昔のような人混みはなくなってきた。平成の頃である。

 商店街が廃れる前、昭和50年頃までに、たくさんあった映画館が次々となくなり、中央大通りの百万$などの大型キャバレーも消え、夜の歓楽街が勢いを失っていった。代わってピンクキャバレーなどのいかがわしい店が乱立し、ちょっと歩くのが怖い通りとなった。近所でも、活気のあった尼崎センター市場が次第に廃れ、その挙句、火事になり全焼し、今は全く面影もない。尼崎の実家周辺は古くから住む人の多く、東京や大阪に比べて街の変化は少ないとはいえ、昭和30年代の面影は難波公園以外、ほとんどなくなった。

 上の写真は尼崎にあった診療所から前の道を撮った写真である。昭和30年代で、道も舗装されおらず、車もほとんど通らない。下の写真はこれも昭和30年代の難波幼稚園で、園長の田中花子先生が写っている。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広瀬院長様

「懐かしい尼崎」を懐かしく読ませていただきました。
難波幼稚園の写真、立ってらっしゃるのは園長先生ですよね。

                        ねこ吉

広瀬寿秀 さんのコメント...

はい、そうです。
この写真は兄の頃ですので、昭和32、3年頃の写真だと思います。たぶん田中先生も60歳代でしょう。