2020年6月1日月曜日

弘前ねぷた 新型コロナウイルス 退散のために是非やろう



 弘前桜祭りに続いて、夏に行われる弘前ねぷたも中止に決まった。市民の健康を考慮してのことと思うが、桜祭りとねぷたを同じにしてもらっては困る。弘前桜祭りはあくまで、長い冬を耐えた人々が桜咲く季節を喜ぶものにあるのに対して、弘前ねぷたは、その由来は諸説あるものの、農作物の豊作を願い、厄災と邪悪を追い払う宗教的な要素が入っている。そうした意味では新型コロナウイルスが流行っている今年こそ、その厄災を追い払い、人々の健康を願うために弘前ねぷたを運行する。

 もちろん今までのような多くの団体が参加する合同運行は、三密の徹底のためにもすべきではないが、弘前市役所、商工会議所などのねぷた、せめて一台を流すことはできるのではないだろうか。人との距離をとった囃子方と最低限の曳き手で構成された“新型コロナウイルス退散”のねぷた、小型ねぶたでも良い、を運行する。

 こうした時期では、もし感染者が出たらという怖れから、何事も自粛するという方が問題が少なく、むしろ感染者が出るかもしれないというリスクを負って開催する方が勇気がいる。新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことが多いが、100年前のスペイン風邪の教訓を考えると、第二波、第三波と続き、多くの人が抗体をもった時点で終了する。確実なワクチンが開発され、従来のインフルエンザと同様になるには少なくとも後23年はかかる、その間にリスクはあるが皆に勇気を与え、病気の終息を願うためには、何より弘前ねぷたを実施することが重要である。

 一台でもよい、弘前ねぷたを運行し、そして古式に則り、燃やすなり、川に流すなり、きちんと“なぬかびおくり”を行い、新型コロナウイルス退散を願う行事をすることが、これからの弘前ねぷたの歴史においても必要なことである。五所川原の虫送りもそうだが、こうした行事は、冷害、害虫、台風、疫病などの自然災害を何とか退散して欲しいという人々の強い願いを形にしたものであり、楽しみでもあると同時に、かなり宗教的な側面も含む。今はこうした宗教的な側面はほとんどなくなり、人々が楽しむ観光的なものとなったが、ここはその原点としての意味、自然災害を追い払うという点から弘前ねぷたがある。この際なので、一切の観光的な側面をなくし、運航日、運行時間や運行経路も秘密にしておき、単純に弘前ねぷたを運行するのもいいかもしれない。

 スペイン風邪は1918年に起こった前流行と、191920年に起こった後流行の二段階に分かれ、この時の青森県の感染者は前期が5104名、後期が2890名の計8085名であった。当時の人口は756454名であったのでほぼ感染率は1%であった。青森県で最初に罹患したのは191810月末に、三本木の畜産学校生徒が東京で感染し、その後、弘前市、青森市、八戸と感染が広がり、11月に大鰐町の小学校教員が最初の犠牲者となる。特にひどかったのは北津軽郡嘉瀬村(現:五所川原市)で6756人のこの村で47名の死亡者が出た。後期の流行は1919年の12月に軍隊内の新兵を中心に発生し、瞬く間に36名の死亡者が出た。後期の感染者は少なかったが、死亡者は多く、青森県で1920年の125日から3月末までに891名の死者が出た。特に青森市と五所川原市は死亡者が多く、それぞれ565名、110名の死者が出た。全国的にも死亡率は徳島県、兵庫県のつぐ3位であった(“日本を襲った スペイン・インフルエンザ”“(速水融著))。

 1919年と1920年に弘前ねぷたを運行したか、はっきりしないが、戦争期間(1938-1947)を除いて中止していないようなので、多分、行なっていたのだろう。弘前ねぶたと同様の厄災退散を願う祭りに京都の祇園祭と大阪の天神祭がある。いずれも本年度は祭りが中止となったが、祇園祭は八坂神社で、天神祭は大阪天満宮で関係者のみによる疫病退散の神事のみを行う。ただねぷた祭りは、これといった神社での神事はなく、行事そのものが疫病退散となる。風水の関係からいえば、弘前市は3つの水車と2つの柄杓からなり、悪気は岩木川に流されるようになっている。その考えから、ねぷたは藤田記念庭園を出発し、反時計回りに弘前城の周囲を周り、岩木川で燃やし、流す運行が一番、短い。さらに大きく囲むとなると、茂森町から新寺町に抜け、紺屋町、代官町、田町、そこから西に上っていき、浜の町に行くコースが考えられる。弘前市が宗教的な行事を行うことは戦後、基本的には禁止されているが、厄災、邪気を追う祭りは、宗教的な意味を超えた原初的な願いであり、市民を勇気づける、例えばブルーインパルスのようなものであり、是非とも小さなねぷたであっても実現して欲しい。どうしてもできない場合は、トラックの荷台に小さいねぶたを載せ、スピーカーで囃子を流しても良い。要は疫病から弘前市民を守る願いである。単純にやめるという発想ではなく、その中で何ができるか、ジョッバリ精神で検討して欲しい。

PS:大正8 年頃(1919)まで戦争景気で大型ねぷたも出たが、大正9年(1920)には景気が悪くなり、急に滅入った祭りになったとの記載があり、いずれの年もねぷたは中止されることはなく、開催された(弘前ねぷた本)。





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