2023年9月23日土曜日

なぞの芳園 5  ついにわかった


歴史研究の面白さは、資料をつなぎ合わせて、新たな事実を見出すことであり、それは推理小説を読み、犯人を当てるのによく似ている。美術史についても、同じようなことがあり、長年、研究してきた「なぞの芳園」について、ほぼ解明したので報告したい。

 

まずおさらいとして、イギリスの大英博物館、ビクトリア・アルバート美術館、アイルランドのチェスター・ビティー・ライブラリーに「芳園輝」の署名のある四条派の名品がある。これまで江戸後期の有名な画家、西山芳園の作品となっていたが、近年、アメリカ、シンシナティー美術館のHou-mei Sung博士により、「芳園平吉輝」(ほうえん たいら よしてる)という作家の作品ということになり、大英博物館はじめ、表記をすべて変更した。この研究に協力した私は、平という姓は日本ではむしろ氏族名として使うため、平 吉輝 という名前はないと訴えたが、結局、却下された。それでは平 吉輝という画家が実際に存在するかというと、調べる限り、こうした名前の画家は存在しない。

 

一方、東大名誉教授の河野元昭は、「秘蔵美術大観」(1996年)の中で、英国にある「芳園輝」の落款のある絵を、同時期に活躍した香川芳園ではないかとしている。そこで、まず香川芳園の署名のある作品を調べると、大英博物館に154図が収められたスケッチ帳、オーストラリア、NSW州立美術館に「京都府画学校出仕 香川芳園」と署名のある作品が一つ、イタリアのヴェネチア美術館に3つ、私が所有するのが1つある。署名自体がイギリスにある「芳園平吉輝」と似ているが、印章が異なり、作風も違うことから、芳園平吉輝=香川芳園とは判断できなかった。

 

香川芳園の号は、蟾麿という変わったもので、同時代に滋野芳園という画家がいるが、こうした変わった号の画家が同時代に二人はいないと考えられ、香川芳園=滋野芳園であることは間違いない。そこで滋野、香川を合わせて検索しいくと面白い事実が浮かび上がってきた。

 

大阪を代表する画家、菊池芳文は最初、滋野芳園の弟子だったが、この師匠が急に西国に行くと言って行方不明になったため、仕方なく大阪より京都まで通って幸野楳嶺の弟子となった。芳園がいなくなったのは、おそらく明治13年頃のことである。それでは滋野はどこに行ったのであろうか。池田市史をみると、池田の豪商で絵画収集、画家のパトロンをしていた稲束家の日記の明治14722日の項に、「神戸下山手通り7丁目番外60号 滋野芳園方ニ而宇野信太郎、原保太郎、山口県県令」の記載がある。香川芳園の父は宇野助順、明治17年の京都府京都市画学校出仕に記録には、香川芳園の住所は京都、宇野信太郎方となっており、宇野信太郎は芳園の親類であることは間違いない。神戸市下山手というと現在の元町駅の山側で、ここで宇野と一緒に暮らして絵を描いていたのであろう。

 

最初に述べたイギリスのある多くの作品には「應濵田氏需写」の文字があり、濵田という人の依頼によって描かれたことを意味する。この濵田氏というのは、当時、神戸でイギリス向けの美術品を輸出していた濵田篤三郎のことで、欧米人の好みに合わせて美術工芸を日本で製作し、輸出していた。この濵田が芳園を呼び寄せて、欧米人に合わせた絵を注文して製作したとも考えられる。さらに調べると、濵田の店、丸越組の海外貿易店は元町4丁目49にあり、これは元町駅の海側であり、下山手7丁目とは300mくらいしか離れていない。丸越組は明治14年から17年までの活動だったことから、明治17年に香川芳園が京都に戻り、京都府画学校に出仕したことも時期が一致する。

 

つまり濵田篤三郎が、大阪にいた香川芳園を誘い、神戸の自分の会社近くに住まわせて、主としてイギリス向けの作品を描かせたが、濵田の店が閉鎖されると神戸を離れて京都に行ったことになる。

 

香川(滋野)芳園の絵をみると、1。幕末、明治初期の絵、2。明治14年から17年の海外向けの「芳園輝」の署名のある絵、3、明治17年から明治21年まで京都府画学校に出仕していた時期の絵、4 明治21年から死ぬまで(明治40年)の絵の4期に分かれると思われる。このうち4期の絵が最も画力が劣っていること、博覧会や共進会などに作品を出品しなかったこともあり、次第に人々から忘れられ、どこかで西川芳園に混同されていったのだろう。

 

今回の研究で、香川芳園=滋野芳園=方園平吉輝ということはある程度証明されたのではないかと考えている。






 

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