2007年2月23日金曜日

笹森儀助 2



青森という中央からみれば辺境に生まれた儀助には、はなやかな明治という時代に隠れた人々の負の側面を、実検した沖縄諸島やさらには朝鮮、台湾で暮らす人々の中に見いだした。貧窮した人々の暮らしをどうしても座視することができなかったのであろう。
農牧社をやめた儀助は、乏しい金を工面した近畿、中国、九州などの各地を巡った。その後、北海道に行く予定であったが、たまたま千島に探検隊を派遣する話を聞くと、便乗し、「千島探検」を発行した。北に比べて南境の開拓が遅れていることを憂い、琉球探検に出かける。儀助が訪れたトカラ列島は現在、十島村と呼ばれ、私も17年ほど前に1年間の歯科巡回診療で何度か訪れた。その当時でさえ、鹿児島からのフェリーは週2回ほどしかなく、台風でもくれば1,2週間の船が来ないこともある。まして明治26年当時といえば、それこそ今でいうならアフリカの奥地にいくようなものであっただろう。その旅行記「南東探検」は単に旅行記にとどまらず、そこに住む人々の悲惨な状況を伝える媒体ともなった。普通のひとであれば、本を書き上げることで事足りたのであろうが、儀助はそれでは満足できなかった。奄美大島の島司になって島民の生活向上に努めた。ここでもさとうきび事業など色々な試みを真摯に行ったが、薩摩の商人や中央の役人にやり方にことごとく対立して、結局は辞任してしまう。その後、台湾、朝鮮、シベリアを訪れ、ここでも大量の日本人女性が棄民として売春宿で働いているのに絶句する。その後、明治35年には推されて青森市第二代市長に就任した。青森商業補習学校に設立などに尽力するが、明治41年には辞任したあとは、一家の生活費を稼ぐために娘の勤務していた大阪の病院の会計監査になった。娘の死とともに、弘前に戻った。普通、市長を6年もしていれば、その当時そこそこの金は残せたと思うが、儀助には財産はなく、大正4年に弘前市鍛冶町の銭湯で倒れ、そのまま息を引き取った。現在の鍛冶町は飲屋街であるが、当時は貧困層の多く住むところで、最後まで儀助らしいとも言える。2003年発行の平凡社 日本の探検家たち の表紙に儀助の誇らしげな姿が飾った。また1年前から地元の東奥日報でも儀助の生涯を追う連載があり、ちかじか本になると思うが、ようやく儀助にもスポットが当たるようになった。儀助の設立した青森商業高校でも、数年前まで儀助の服が打ち捨てられていたが、ようやく校長室に飾られるようになった。
中学生のための弘前人物志(弘前市教育委員会 非常にいい本です)、青森20世紀の群像(東奥日報社)、日本の探検家たち(平凡社 別冊太陽)を参考にした。

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