2007年2月17日土曜日

藤田雄蔵




藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み,昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。
陸軍の最も優れたテストパイロットとして航研機の主任パイロットに選ばれ、昭和13年5月 15日に長距離世界記録(11651km)を樹立した。ちなみに設計には戦後YS-11の設計で有名な木村秀政、機体製作には工藤富治らの青森出身者がかかわっている。副操縦士は高橋福次郎曹長で、昭和14年2月にイタリアから輸入したイ式重爆撃機で漢口に行く途中で不時着し、中国軍と交戦中に戦士した。

写真でみるとわかるように身長176cm、体重71kgの巨漢で、当時の飛行士は狭いコクピットのに入らなければいけないので、小柄の人が多く、このような大柄なテストパイロットはめずらしい。さらにびっくりするのは、眼鏡をかけていることだ。現在でも、パイロットで目の悪いひとはいないのに、この当時、目が悪いことはパイロットとしては致命的であったろう。それにも関わらず、陸軍の威信をかけた事業に選ばたことは、いかに優秀なパイロットであったかを示す。写真をみると温和で責任感の強い性格が見て取れるが、漢口の戦士の際には機密保持のため不時着機に火をはなち、割腹自殺したと言われている。

副操縦士の高橋曹長については、その功績を讃えた石碑が地元富岡にある。研究機開発物語(秋元実著、光人社NF文庫)とヒコーキグラフィティ 青森県航空史(II)(大柳繁造著)を参考にした。

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