2009年12月5日土曜日
漢名憲和と弘前
「昭和天皇の艦長 沖縄出身提督 漢那憲和の生涯」(恵龍隆之介著 産経新聞出版)を読む。著者は先に「海の武士道」(産經新聞出版)という駆逐艦「雷」艦長、工藤俊作の感動的なドラマを著したが、本書は昭和60年に自費出版したもので、昭和天皇が台覧し、愛読していたとの話が伝わり、産經新聞から再販されたという経緯をもつ。
沖縄という辺境の地に赴任した明治の教育者の気概とそれに呼応する生徒の話として、沖縄中学校長排斥ストライキ事件を伝える。当時秋田生まれの熱血教師下国良之助がいて、後に「沖縄の吉田松陰」と謳われるほど、生徒から慕われていた。この下国教頭の突然の免職辞令に対して、漢那らは退校願を出し、決死の覚悟で全校生をまとめあげ、ついには張本人の児玉校長の解任を引き出した。当然、漢那らは中学校中退で、高等学校への進学の道は断たれた。それが後日、海軍士官になる転機となったのであるが。今時、自分の将来をかけてまで先生の仇をうとうとする生徒がいるであろうか。またそうまでさせるような教師がいるであろうか。当時の沖縄の教育を含めて興味深い。
弘前と沖縄は、距離は離れているが、関連は深い。琉球探検の笹森儀助、琉球学の加藤三吾はいずれも弘前の出身者である。本書にも二人の弘前出身者が登場する。ひとりは海軍兵学校時代の友人の中村良三と、もう一人は昭和天皇の渡欧随員である珍田捨巳である。漢那は海軍兵学校の入学時の成績が123名中の4位、卒業時は3位と非常に優秀であった。一方、中村は弘前中学始まって以来の秀才で、兵学校入学から卒業まで常にトップであったが、薩長出身者の多い海軍の中で自然に南北の辺境出身の両者は友人となったのであろう。
当初、漢那が艦長を務めた御召艦「香取」の沖縄寄港の計画はなかったが、珍田が漢那の心情を慮った沖縄への寄港を決定した。結局、晩年まで昭和天皇は沖縄への行幸を希望していたが、これが最初で最後の沖縄訪問となった。宮古沖南下中に御召艦香取に飛魚が甲板にあがってきた事件があった。昭和42年の歌会で昭和天皇はこの事件を思い出し、 わが船に飛びあがりこし飛魚を さきはひとしき海を航きつつ と詠み、その思い出を後年まで鮮明に覚えていたようである。
昭和60年の沖縄国体へのご臨席を要請された昭和天皇は「沖縄といえばすぐに漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年の沖縄にいくことができた」と発言し、国体出席への強い意思を示したが、結局は病気のため沖縄にいくことができなかった。また病床にあった天皇が、沖縄県民会議から送られた平癒祈願の署名簿の中に、漢那という名前があるのを見つけ、「これは漢和艦長の身内の者ではないか」と侍従に尋ねられたとの記述を紹介している。病床にありながら、こういった署名簿にもいちいちお目を通されていたかと思うと、感嘆する。それと同時に、昭和天皇にとって、皇太子時代のヨーロッパ訪問が最も楽しかった思い出であることが、このエピソードからも確認できる。漢那とともに珍田の津軽弁もその楽しい思い出のひとつであろうと推察される。
後半は、漢那の政治家としての活動を紹介しているが、その中で著者は現代沖縄の政治状況に対して痛烈に批判している。本書を紹介したビデオでもその舌鋒はするどく、沖縄県人以外にはこんなことはとても言えないといった内容なので紹介する。
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1 件のコメント:
この録画、私も見ました!
しかし、いつもながら、、先生の書き込みの内容が素晴らしくそして濃いのにはただただ感心するばかりです。昔のモノからじっくり読ませて頂いております。
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