2010年5月17日月曜日

兼松石居 3



 縁は縁を呼ぶというのか、偶然にも本日、兼松石居の子孫の方の奥様とお会いし、お話しすることができた。ここしばらく石居関連のことが続く。全くそれまでは知識のなかった人物であるが、こうも縁が続くと次第に親しみがわいてくるから不思議である。

 森林助著「兼松石居先生伝」の系譜によれば、兼松石居には3男2女がいた。長男艮(トドム)は成田氏から妻をもらうが、早く亡くなり、その子も早世する。後に梨田氏より後妻をもらい、その子が後に陸軍少将兼松成器(なりき)となる。
長女しほは兼松本家(石居兄、兼松久通)の長男穀(ヤゴロ)の妻となるが、子がないまま、夫が亡くなり、寡婦となる。
次男直(ナホキ)は桐淵竹右エ門の家に養子となる(その子は貞節サダヨ)。
三男郎(イツラ)は石居本家を継ぎ、次女りかは長尾介一郎の妻となる。
ここからが複雑で、穀には子がなかったため、郎が本家の4女みよと結婚して養子になり、郎の姉であるしほは、同時に母となる。郎は5人の子供をもうけ、その子孫が現在久留米に在住している。

 今回、お会いしたのは、石居長男艮の子成器の長男成一氏の奥様である。現在、奥様は沼津市に在住しているが、成一氏は残念なことに先頃亡くなった。成一氏は会社務めが長かったが、退職後は先祖の石居関連の研究をなされ、何度も東奥義塾や弘前市立図書館を訪ね、あるいは親類である長尾家の日記などを晩年まで研究されていたようである。その研究の一部は弘前大学の研究者などにより活用されている。

 奥様も青山学院出身であることから、今もって本多庸一、笹森順造などの研究もされており、また最近ではコンピューターもなされるようで、本当にお元気である。奥様の話では、義理の父である成器は早くに予備役となり、その後は会社などをして長寿を全うしたようだが、石居関連の資料も軍人で転勤が多く、ほとんどなかったようである。その当たりの経緯は、松木明、松木明知著「続津軽の文化誌」の「兼松石居の津軽方言考そのほか」にくわしく書かれている。奥様も記憶されており、松木明先生に何の資料もお渡しできなかったことを恐縮していた。成器は昭和11年に予備役になったが、この人事にはおそらく2.26事件も関係していたのであろう。当時勤務していた豊橋陸軍教導学校には事件関係者がおり、また青森県出身者も何名かもこの事件に関連している。成器の長男成一氏も技術将校として太平洋戦争時には中国戦線、ニューギニア戦線に行ったようだが、親が将軍ということでかえって軍ではいじめられたりもしたようだ。それにしてもインパールと並び悲惨なニューギニア戦線をよくも生き残った。

 奥様のお話では、兼松しほは東奥義塾、函館の遺愛女学校などで英語を学び、その後、ひとりで上京し、津軽の殿様のお嬢さんの家庭教師、あるいは学習院?に先生として勤務し、明治19年ころに亡くなったようである。前回、しほは攻玉社あるいは普連土女学校に勤務したのではと書いたが、間違いのようである。一方、しほの弟である郎は大正のころまで弘前にいたようである。またしほの義理の姉(久通の次女)屋佐は、矢田堀景蔵の後妻となったことを指摘された。矢田堀はどっかで聞いたことがある名前と思っていたが、長崎海軍伝習所の勝海舟とならぶ総監で、江戸幕府最後の海軍総裁の矢田堀鴻のことである。前のブログで山澄直清や藤田潜のことを書いたが、こういった関係もあった。(ちなみに山田純三郎とも関連のある支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の妻は黒石の加藤宇兵衛の娘である)。

 それぞれ沼津と久留米にいる兼松の子孫は、それこそ石居から数えて100年以上たって初めて親戚であることが判明し、今では交流があるようになった。森鴎外の「渋江抽斎」は今もってその続編が継続中であり、その子孫は小説と同じように明治、大正、昭和、平成の時代を懸命に生きた。そういった意味では奥が深い名著である。

 このブログがさらなる兼松家の縁の架け橋になってほしいと思い、あえて人名を載せた。3代以上前になると縁故はほとんどわからなくなるが、関係者がいれば連絡してほしい。

写真は矢田堀鴻である。

6 件のコメント:

まあちゃん さんのコメント...
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宮本真理子 さんのコメント...

たまたまインターネット検索で、貴ブログを拝見しました。祖先に兼松石居という学者が存在した話を子供のころより母から聞いておりました。
貴ブログのおかげで、兼松石居氏の足跡が分かり大変嬉しい思いで、コメントさせていただきます。私は、兼松成一様の姪にあたる者です。子供の頃に初めてお会いし、私の結婚式にも来て頂きましたが、住居を変わられてから音信が途絶え、大変ご無沙汰をしておりました。九州や千葉にお住いのお姉さま方(亡き母の)にも、お会いしたことがあります。
母「多嘉子」は成器氏の5女として生まれた後、成器氏の部下の夫婦の養女となりました。52歳で他界しましたが、文学をこよなく愛しておりました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントいただき大変感謝しております。このブログを通じて、兼松石居の子孫の方のネットワークができ、久留米、沼津、川崎のお住まいの子孫の方ともお互いに連絡がとれるようになりました。明治から早140年もたつと子孫の方の記憶も断片的になりますが、こういったブログで少しでも先祖のことを思い出していただければ幸いです。出来ましたらhiroseorth@yahoo.co.jpにメールいただければ詳しいお話しできます。

Unknown さんのコメント...

兼松孝夫
兼松石居先生のルーツに家系を調べております。
藤原の姓から兼松に戦国の時代にさかのぼる兼松のルーツ
私どもの家系を見ておりますと石居先生の兄に当たる久通の長男(久良)に石居先生の娘を嫁に
久良の嫡男久敬に久敬に久通の4女美保が加藤武彦幼女として久敬に嫁ぐ
久敬の次男七一東京において(鉄道省丹名トンネル総監督)久留米藩松下家長女ミサを婚姻長男高正
高正の長男孝夫と続いています。
兼松家のルーツは兼松修理亮からのルーツです。

Unknown さんのコメント...

兼松孝夫
兼松石居先生の詳しい冊子を十数年前に火事で焼失してしまい残念です。
弘前高校にまだ保管されていると思いますが,そちらに行けずざんねんです。
 かなり詳しく書かれております。弘前に居られる兼松家縁の方は調べてみてほしいと思います。
また数年前見たどこかの人名事典にもかなり詳しく系図が書かれて降りました。今後調べたいと思っております
何か兼松家の事ありましたらメール bigkanebear@yahoo.co.jp までご一報ください。

広瀬寿秀 さんのコメント...

兼松家に関しては、子孫の方からの情報でかなり家系図はわかっていますので、メールにて送付いたします。