2010年6月6日日曜日

山田兄弟27



山田家の子孫は、弘前にいないかとのコメントをいただいた。貞昌寺には、山田兄弟の碑の後ろに山田家の墓もあり、その子孫もいるのではあろうが、詳細については全くわからない。私自身は専門家ではなく、このブログの出典も、保坂正康さんと、結束博治さんの2冊と東亜同門書院発行の若干の雑誌によるものがほとんどで、直接愛知大学で調べたり、関係者に合ったこともない。さらに言うと、山田兄弟を描くこの2冊の本の発行日は1992.2と1992.9とほぼ同時となっている。山田純三郎の資料の多くを持っていた三男順造さんが、父の伝記を完成させることをライフワークとしていたが、道半ばにして病に倒れ、何とか完成させようと上記の二人が急いで完成させたことによる。できれば生前中に発行させようとしたのか、順造氏の資料を中心に執筆したのが実情であろう。とくに保坂さんは関係者の証言を丹念に追って執筆する作者だが、この本に限ってはかなり省略されており、不本意であったろう。両者とも将来さらに定本的な山田兄弟伝の完成を望んでいた。

 本来の伝記であれば、こういった兄弟を生んだ山田家の家系や、良政、純三郎の兄弟のことも記載しないといけないであろう。特に次男清彦、四郎はアメリカに渡ったようだが、その後どういう生活をしたのか、あるいは4人の男子のうち2人をアメリカに、2人を中国にやった父浩蔵はどんな人物であったかなど上記の2冊では十分に描かれていない。明治のころ、海外に子供を送るということは、ほぼ帰ってこない、家系の断続を意味し、当時としては浩蔵の決意はみごとである。

 山田浩蔵は弘前藩士族で150石の中級武士で、藩主の行政面の用向きを伝える「お小姓組」に属していた。維新のころには武士の授産事業として漆器会社をおこし、今日の津軽塗の発展の基礎を作った。妻きせは初代弘前市長菊池九郎の姉であり、また浩蔵の妹は菊池九郎に嫁いだ。浩蔵は同士の伊藤正良とともに「漆器樹産合資会社」を設立し、また青森銀行の重役になった。

 浩蔵には4男2女がおり、長男が良政、三男が純三郎で、次男は清彦、四男四郎ら、すべての男子は東奥義塾に学び、清彦、四郎は渡米し、その地で生涯を終えたという。どういった活動をしていたかは不明である。また長女なおは伊藤要一(上記伊藤正良の子か?、県会議員)に嫁ぎ、二男三女をもうける。次女芙蓉は弘前市出身の竹内徳崔に嫁ぐ。徳亥は後に満州国高官(民政庁長官)となる。またその長男竹内伸太郎は元青森県立図書館長である。伊藤要一(山田純三郎書簡では佐藤要一となっており、改名したのか?)の長男が佐藤慎一郎で、中国各地で活躍し、戦後は拓殖大学で教えた。東京在住の寳田氏との会談の模様が残っており、純三郎に関わる秘話を伝える(対談録 荻窪酔譚)。また純三郎の妹ひさは馬渕勇五郎に嫁ぎ、二男誠剛は満州鉄道に勤務する。こうして見ると山田家の親類の多くは、時代を反映するのか、中国で活躍している。

 最近の中国の報告では、1920年ころに広東政府による中国海南島開発調査のため、山田純三郎とおいの菊池良一が海南島を訪れたことが記載されている。新聞社、学校経営以外にも色々なことを中国でやっていたことがわかる。純三郎は日記のような文章をほとんど残さなかったため、実際に中国で何をしていたかは、あまりはっきりしていないが、今後中国国内の資料でも少しずつ解明されていくだろう。一方、関係者の聞き取りとなると、直接純三郎を知るひともすでに高齢か、他界しており、難しい。そういった意味では佐藤慎一郎氏の証言は貴重である。

 山田兄弟の子孫の多くは、アメリカ、東京など各地に散らばっており、地元弘前との関連は薄れているかもしれない。しかしながらインターネットという手段がある現在では、こういった距離の遠さを問題はないのだから、お互い交流し、積極的に発言していただきたいものである。

山田家家系は愛知大学資料集から、また下記写真竹内徳亥夫婦の写真はまほろばの泉から拝借した。

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