2010年6月30日水曜日

ワールドカップ



 連日ワールドカップが続き、寝不足気味です。日本らしいパスをつなぐサッカーが見られず、終わってしまったのは残念ですが、日本サッカーも少しずつ進歩しています。アジアというサッカー後進国からの出場では、アジア予選では守備的な相手に点をとるスタイルが要求され、本戦では強い相手に対して守備的に戦うスタイルに変更せざるを得ないのは、同じスタイルで戦えないジレンマがあったと思います。コパアメリカなどの海外での試合経験や欧米クラブへの選手の移籍がもっと増えればさらに強くなると思います。

 私が最初にワールドカップをみたのは、1970年のメキシコワールドカップで、NHKで何試合かが放送されていましいた。確かブラジルが優勝したと思いますが、ペレの活躍が光る大会でした。中でも一次リーグ、イングランド:ブラジルのペレとイングランドGKゴードンバンクスの攻防は今でもはっきり覚えています。ペレの放ったヘディングシュートをバンクスが右手一本ではじくのですが、まさに神懸かり的なファインセーブに驚きました。またドイツ主将のベッケンバウアーは、試合中に肩を脱臼しながらテープで固定しながらイタリアと戦い、その精神力には感銘を受けました。名勝負です。当時、ベッケンバーウアーのチップキックというちょこんと浮かすパスは、サッカー少年にはあこがれの的で、みんなよく練習していました。

 その後、どういう訳が六甲学院で1958年スウェーデン大会の16mmフィルムを見た記憶があります。どこからかフィルムを借りたのでしょう、教室に中学1年生から高校3年生までのサッカー部全部員が集められ、ブラジル:スウェーデンの決勝の試合を見ました。この時のブラジルチームは17歳のペレを含み、ほとんど魔法というようなプレーの連続で、ホームであり、開催国のスウェーデンの観客も最後には感嘆したくらいです。個人的には史上最強のチームと思います。当時サッカー少年だった私らから見れば、ほとんど人間技とは思われず、そのプレーにひたすらため息をつくばかりで、おそらく当時の全日本のメンバーも同じだったと思います。ペレに至っては、それこそ神そのもので、存在そのものが奇跡で、まして会う、プレーを見るといったことは考えられないようなプレーヤーでした。それで親友の大谷君の家でペレのサインを見せてもらった時は、驚くというより、なぜここにペレのサインがあるのかの方が不思議な気になりました。おそらく当時の日本で、ペレのサインなんか見たことのあるひとはいなかったでしょう。今、とんねるずの木梨憲武が壁などに勝手に落書きしているあれです。今考えると、大谷くんのお父さんは新聞記者をしており、当時の日本人で唯一ペレーに会い、サインしてもらえる立場だったのでしょう(昨年、大谷四郎氏は日本サッカー殿堂入りしました。大谷くん、おめでとうございます)。

 今大会は、あの新型のサッカーボールがすべての試合は台無しにしています。ゴール遥か上をいく、シュートばかりが目立って、フリーキック、ロングシュートによるゴールがほとんどありません。ワールドカップの度に変なボールを使うのはもうやめてほしいものです。一方、日本、韓国、ニュージランドといったサッカー二流国の健闘が光ります。ニュージランドチームは国内のセミプロチームに所属しているものがほとんどで、中には銀行員というプレーヤーもいるようです。こういったチームがイタリアと引き分けたことは奇跡に近いと思いますし、アマチュアチームでも、がんばれば強豪チームにも勝てる方法を教えてくれたと思います。日本チームもそうですが、点を取るサッカーは人気がありますが、守り抜くサッカーも見応えがあります。高校生のチームも参考にできる戦術です。

 フランスもひどい状況で、あの華麗なるシャンパンサッカーは一体どうしたのでしょうか。チーム自体がちぐはぐで、代表選手も黒人ばかりで、あれではほとんどアフリカチームといってもよいでしょう。フランスの人種政策の混乱を目の当たりに見るおもいです。愛国主義、移民政策にまで問題がまだまだ発展しそうです。また今回の大会で腕に入れ墨を入れた選手を多数見かけます。ヨーロッパの選手に多いようです。サッカーは庶民のスポーツで、子どもたちにも人気があります。サッカー選手は子どもたちの憧れの的であり、代表選手に選ばれるような選手は、とくに自覚をもってほしいと思います。入れ墨を入れるのが、子どもたちにかっこいいと思われるかもしれませんから。

 今年もサッカー部同窓の集まりを東京で開催しましたが、そのひとりが岡田監督と早稲田大学政経の同窓で、しばらく同じサッカー同好会に入っていたと話していました。岡田監督は大阪の出身で、友人とも同級、同じクラブでよく話しあったようです。大学に入ったからもうサッカーは趣味でやると言っていたようです。そのため早稲田大学の本部のサッカーには入らず、最初は同好会に入っていたようです。今でもそうですが、当時も早稲田大学政経は私立の最難関で、東京大学文一との併願のパターンが多かったと思います。岡田監督は1年間浪人して、サッカー推薦でなく、自力で入試を突破したようです。大阪の名門、天王寺高校とはいえ、日本ユースまで選ばれた逸材で、サッカー推薦でいくらでも他学部、他大学行けたのに、あえて入試を受け、難関の政経に入るあたり、岡田監督ぽいところです。六甲高校でも、サッカー部が強かった頃は、関西の私立大学からサッカー推薦がありましたが(私でも龍谷大学からさそわれたくらいです)、誰もそんなところにはいきませんでした。ユース代表の岡田監督くらいであれば早稲田大のスポーツ枠でも入れたのでしょうが、大学に入ってまでサッカーにしばられるのがいやだったのでしょう。当時はプロサッカーもなく、社会人リーグでプレーしても、結局は会社での昇進が遅れるという時代でしたから、大阪トップの進学校天王寺高校にいた岡田監督からすれば、入試で早稲田に入るのが現実的な選択だったかもしれません。今でもそうでしょうが、サッカー部の部長(大体は教授)は入学予定者のリストを眺め、サッカー経験者をチェックし、個別に入部を勧誘していました。岡田監督も結局はサッカー協会の関係者から怒られ、本部のサッカー部に入ったようです。

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