2010年7月26日月曜日

山田兄弟28





 来年、2011年は辛亥革命からちょうど100年、中国各地で数多くのイベントが予定されている。その皮切りに、恵州起義110周年を記念して、革命が起こった三州田に大規模な彫刻公園がこの10月に完成する。敷地は約3万坪で、19の彫像が立つ予定である。中国では恵州起義は、庚子首義あるいは三州田首義と呼ばれ、その場所には革命成功後の1925年に孫文庚子革命首義中山記念学校が建てられた。中華人民共和国建国後、近くにダムが作られ、三州田の村自体が水没したため、あまり注目されることはなかった。ところが来年度の辛亥革命100周年事業の一環として再び脚光を浴び、1342万元の費用をかけ、この革命をモチーフにした彫像公園が建てられることになった。

 山田良政は、1900年10月6日に起こった孫文最初の革命に参加し、外国人として初の犠牲者になった。この革命については以前のブログに書いたが、義和団事件に触発された孫文は、清朝打破を目指した革命運動を広東で起こそうと考えた。日本人では宮崎滔天、福本日南、平山周、内田良平などが革命運動に参加し、日本での費用、武器弾薬の調達に動いた。ところが孫文に同情的であった犬養毅も動かず、日本ではほとんど進展はみられないことから、山田良政は台湾に赴き、台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平に斡旋を依頼した。山田良政にとっては、児玉は郷土の軍人一戸兵衛と懇意であり、また後藤は叔父の菊地九郎と面識があった。当時台湾を領有していた日本としては対岸の福建省に日本の勢力を延ばそうとする目論みもあったのだろうが、後藤と児玉は革命援助を約束した。

 この約束を信じた孫文は、すぐに同士の鄭士良に蜂起せよと命令を下し、10月6日に恵州の三州田で決起した。その頃、孫文と山田は台湾で児玉、後藤と協議を重ねていたが、ちょうど内閣は山県有朋内閣から伊藤博文内閣にかわり、突如計画がすべてご破算になった。伊藤は中国不干渉主義をとり革命軍の武器弾薬の輸出を厳禁した。計画が狂ったため、蜂起の継続はもはや不可能と孫文らは判断し、その使者として山田良政はじめ数名を鄭のもとに派遣し、革命軍の解散を命じた。良政の使命は革命軍に孫文の伝達を告げれば、そのまま引き返せばよかったが、敗軍を見捨てるのを潔しとせず、殿軍の6名として襲いかかる清朝軍と戦い、捕虜になり三州田の地で処刑される。10月22日とされ、享年33歳であった。

 話を三州田の彫像公園にもどそう。この公園のハイライトは孫文を中心に2名の革命家が議論する彫像群であろう。ここに羽織袴の和服を着た日本人がいるが、どうみても良政ではない。当然、このシーンでの彫像は山田良政でなくてはいけないが、面影はむしろ内田良平に似ている。当時、良政は中国人になりきろうとしたため、弁髪、中国服、金縁眼鏡という服装であり、彫像はあくまでモチーフとしての日本人ということからすれば、モデルとしてはふさわしくなかったかもしれない。それでも、山田良政はもう少し有名であったなら、こういったミスはなかったかもしれない。残念である。せめて顔立ちくらいは似せてほしかった。

 公園の完成は10月ということなので、今後もう少し具体的な情報が入るかもしれないが、この日本人は誰をモデルにしたのであろうか。そして来年度の辛亥革命100周年記念事業で、山田兄弟がどういった評価をされるのか、期待したい。

 中国のHPを参考にしているので、内容については十分に理解できず、上記ブログ内容も間違っている可能性もあるが、許してほしい。次のHPに彫像公園の詳細が書かれているので参考にされたい。
(http://dzb.yantian.com.cn/html/2009-12/08/content_880548.htm

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