2010年7月19日月曜日

終わらざる夏



 浅田次郎著「終わらざる夏」を読みました。浅田さんの作品は、大好きでこれまでの著書もほとんど読んでいます。映画やテレビを見て、泣くことはあっても、本を読んで泣くことはまずないのですが、浅田さんは泣かせる達人なのか、よく泣かされます。文章力の巧みさでは、現代作家では秀逸でしょう。

 浅田さんの最新作は、着想30年、渾身の作品で、太平洋戦争の末期、終戦後と言った方がよいかもしれませんが、北海道の北、アリューシャン列島の占守島での戦いに巻き込まれた人々を描いたものです。占守島の戦いと呼ばれるもので、ソビエト軍は軍略上の目的から、戦争の終結した8月18日に占守島守備隊に突如攻撃してきました。戦争末期に関わらず、設備、人員、士気とも高かった日本軍は、ソビエト軍の野望をくじき、北海道の占領をあきらめさせた戦いです。

 史実については、ある程度知っていましたが、対ソ戦を想定した関東軍最強部隊が、アメリカ軍のアリューシャン列島攻略に対する防御として、移動され、輸送手段の欠如から最果ての北の島に取り残された末に、結局はソビエトと戦うことになった偶然については、知りませんでした。奇跡的残った最強部隊が、北海道へのソビエト侵攻を阻止したのです。

 本書は、うその得意な浅田さんにとっても書きにくい本だったでしょう。前書の「ハッピーリタイヤメント」のように着想を得て、思うままに書ける内容ではありませんし、代表作の「蒼穹の昴」も資料集め、構成には苦労したとは思いますが、所詮は外国の、それも100年以上の前の話なので、自由に言葉を文章に乗せることができたでしょう。ただ本書は、関係者がまだ生存している近現代の物語で、当時の時代を資料的にも、体感的にも矛盾なく、表現しなくてはいけません。これは書く側からすれば、かなり制約を伴います。それ故、本書では浅田さんの本には珍しく、泣ける場面は少ないようです。

 それでも3人の主人公、軍医菊地、英語通訳として招集された片岡、鬼熊こと富永軍曹、その家族、関係者の挿話には、浅田ワールドがちりばめられ、泣きそうになりますが、ここでは泣かせる手前で寸止めされ、筆を置いています。主題があまりに厳粛なため、泣かせることができても、理性面での制動が効いているのでしょうか。本書のハイライトと思える、実際の戦闘シーンにしても、ソビエト兵の戦闘詳報でさらりと語られているだけで、泣かせる場面は山とあるシーンに関わらず、押さえています。平成の泣かせ屋が、泣かせるのを禁じた作品です。それだけ思い入れの強い作品だったのでしょう。

 先日、BS11のベストセラーBOOK TVで浅田さんが出演していました。他の出演者の能天気な質問に、始終苦りきった表情で、こんな間抜けな質問に答えるくらいなら出なきゃよかったというのが本音だったのでしょう。戦争という不条理の状況にもてあそばれる人間。さらに専守島の戦いでは、戦争が終わった状況の中で戦うというさらなる不条理。英語を愛し、アメリカとの停戦ための通訳として42歳で召集された人物がソビエトと戦うという不条理。そうした中、お末と呼ばれる中村伍長が「もしそういう非道なのだとしたら、どんなことであろうとこの占守島で敵を食い止めねばなりません。ここを取られたら、列島のほかの島も、北海道も攻められます」と言わしめるところが、浅田さんであり、この一言でさすが元自衛隊と思いました。

 ちょうど「指揮官の決断—満州とアッツの将軍 樋口季一郎」 (文春新書) を読んだ後に、本書を読みましたが、占守島戦いを直接指導した現地軍だけでなく、北部軍のトップの樋口中将もソ連の権威であったことは、結果的には上から下まですべて対ソ戦の最良、最高の部隊であり、日本陸軍の最後の意地を見せた戦いだったと思います。日本軍は、アジア侵略という汚名を着せられていますが、近代以降直接戦った相手は、清、ロシア、ドイツ、アメリカ、イギリスという強国であり、けっして卑怯な国ではありません。言うまでもなく戦争ほど、愚かで理不尽なものはありません。まして最果ての地で最後まで戦った彼らは、故郷にそれぞれ親、家族もいて、死にたくはなかったでしょう。終戦後に戦った彼らこそ戦争の愚かさと不条理を最も知っていたはずで、そういった彼らの死を忘れないことが浅田さんのメッセージかと思いました。

 本書には陸軍97式戦車チハ、上陸用舟艇の大発の個性的な乗員が登場しますが、飛行機好きな私には最後まで占守島にいた4機の海軍97式艦上攻撃機の乗員も登場させてほしかった。旧式の攻撃機に乗って、戦う、もうひとつのドラマもあったかもしれない。

 ソビエトの圧力で上映中止となった「氷雪の門」が今年、36年ぶりに上映されることになりました。樺太の電話交換手9名の乙女の悲劇を描いたもので、占守島の戦いが陽の目が出なかったように、日ソ友好を妨げるものとして上映が中止されたものです。是非みたいと思います。

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