2010年7月14日水曜日

織座および荒町(明治2年弘前地図)




 明治2年弘前地図を見ていると、紺屋町に織座というところがある。弘前藩では、藩の殖産のため京都から染め、織りなどの職人を呼び、今の紺屋町付近に住まわせた。その工房があったのが、この織座である。

 松木明知先生によれば、家族も含めると数百人が京都から弘前に来たようで、当時のこのあたりは京言葉が盛んに飛び交っていたのであろう。1722(享保7)年7月6日の弘前藩庁「御国日記」には、5代藩主・津軽信寿(のぶひさ)が紺屋町の織座で「祢むた 流」を高覧したとある。当時のねぷたの運行経路は、この紺屋町から春日町であったようで、殿様はこの織座からねぷた運行を見たようだ。松木先生によれば、織座から殿様が見学したことから、弘前ねぷたの起源を京都の盆灯籠としているが、その通りであろう。藩主がわざわざ、紺屋町の織座から見学するというのは、祭りのルーツ、発祥の場である紺屋町、そこに住む京都出身の住民に敬意を払ったことによる。今の聖母修道院、明の星幼稚園の敷地となる。明治2年弘前地図では 旧織座 高森三四郎邸内 となっている。明治時代後期には弘前で薬店を営んだ菊池長之のものとなったが、その後火事で母屋が焼け、昭和29年に聖母被昇天会に譲渡された。昭和10年には、天皇の弟の秩父宮殿下が弘前歩兵31連隊の勤務することになったが、その宿泊所がこの菊池別邸で、寺山修司の父親、八郎は警護のため、しばしばここを訪れたのであろう。

 織座の奥には織座稲荷がある。この前の日曜日にここに行ってみたが、稲荷神社は跡形もなく、岩木川への道があるだけであった。紺屋町に住む京都出身の住民が故郷を思い出す稲荷神社を建立したのであろう。さらに「弘前福音教会のブログ」には、この付近、四ッ堰というところに江戸初期には刑場があったようで、刑死者の供養を兼ねた神社であった可能性もある。

 織座を左に折れたところには 枡形があり、そのそばには制札が置かれ、船で川を渡った人々に法令などを知らせたのであろう。また付近に足軽町を設けたのも軍事防衛上のことであろう。地図の説明では 浜の町橋 長さ85間 橋幅3間3尺 川幅240間余 水幅36間 明治6年官費を以て新築 となっており、それまでは渡し船で川を渡っていたようだ。付近には浜の町舟守人の名前が見え、舟の管理や警備をしていたのであろう。

 紺屋町から新町、誓願寺、新町坂を歩いたが、この当たりのいわゆる下町は一種独特の雰囲気がある。藩政時代の弘前城下は、上町・仲町・下町の3区域に分けられ、城の東南部を指す上町は上級武士の町、下町は城の西部一帯、岩木川までを指し、比較的下級の武士たちが住んでいた。また川の氾濫が多かったことから、昔は荒町と呼ばれ、多くの商人や職人がここに住んだ。昔の地名でいうと、荒町、五十石町、上袋町、下袋町、西大工町、鷹匠町、駒越町、平岡町などが下町で、五十石町、鷹匠町、袋町に武士が住み、それ以外のところには商人、職人が多く住んだ。誓願寺からは広い道になっており、そこをまっすぐに進むと新町坂となり、そこからお城に上がる。この道は今でも当時の面影がはっきり残る町並みで、昔は多くの商店があって活況を示したのであろう。現代風の建物や、高いビルもないため、昭和の記憶を思い出すところであり、同じ弘前にいても、ここらを歩くと、タイムスリップしたようななつかしい気分になる。観光名所といって何もないところだが、妙に印象に残る場所である。

 新町坂を上がると、藤田記念庭園にでるが、古地図ではここは新屋敷と呼ばれる長屋であったようで、周囲の家の真ん中には2つの井のマークがあり、井戸が2つあったのであろうか。今の庭園からは全く想像もできない。

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