2013年6月16日日曜日

近代日本の官僚


 「近代日本の官僚 維新官僚から学歴エリートへ」(清水唯一朗著、 中公新書)は、サブタイトルの通り、明治政府が産声をあげた誕生期から近代官僚制度の確立した明治末期までを中心にその変遷を詳細に検討した好著である。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府ができたものの、人材は全くいない。特に近代国家を目指した明治政府は、優秀な西洋の思想、科学に通じた人材の確保に血眼になった。法律、通商、税制度、建築、医学、理学、軍事すべて同時期に近代化を始め、それも一刻も早く西洋諸国に追いつく必要があった。とてもではないが、薩長の革命当事者だけの人材では、藩程度の領域はカバーできたものの、日本一国となると、それぞれの専門を揃えることはできない。

 そのため、最初に行ったのが、前回のブログで述べた貢進生制度で全国からの優秀な人材を多く集め、この中から政府の人材を求めた。当初は、お雇い外国人を高給で雇い、教えを受けていたが、何しろ西洋のあらゆるもの、法律、学校制度、軍事、医学、科学を早急に吸収せざるを得ないため、貢進生の中から優秀な人物は海外留学させたし、海外留学経験者を重用した。

 弘前からも東奥義塾を中心に多くの若者は、主としてアメリカに留学していた。珍田捨巳がその代表的な存在であるが、帰国後は東奥義塾の先生をしていたが、その語学の才能を見込まれ、外務省に入局した。こういった、まるで一本釣りのような形で、語学のできた優秀な若者は積極的に登用していった。アメリカの同世代の学生と一緒の大学生活を送り、卒業後に法学大学院に進み、法学士などをとった。

 その後、明治政府は、官僚登用の方法に試験制度をとるようになった。試験を行い、その成績で官僚を登用するのだが、実は今の東京大学の卒業生はこの試験は免除され、面接のみで登用された。明治法律学校(明治大学)など私立学校からの受験も認められたが、なかなか合格は難しかった。ここの官僚へのコースとして帝国大学の入学が重要となり、全国の若者が血眼になって帝国大学を目指す、今の受験戦争に端緒となった。その後、高等文官試験となり、帝国大学の卒業生の試験免除は廃止されたが、それでも学士官僚と呼ばれる、帝国大学を出て、高等文官試験を通り、官僚となるコースが一般化していった。現在の官僚制度である。同じく、軍隊でも幼年学校、士官学校の軍官僚コースができた。

 弘前では、東奥義塾に行き、そこから外国の大学に行き、出世するというコースは閉ざされ、同時に官立の青森中学校、弘前中学校ができ、そこから一高、東大、官僚というコースが正規なものとなった。当然、青森県の優秀な若者は、義塾に進まなくなり、衰退していき、明治後半から弘前からの偉人は急速に減少した。

 試験のみに優秀な人材が高位になるといった制度が、太平洋戦争における敗北に繋がっていき、旧軍の崩壊とともに軍官僚のシステムもなくなっていったが、文官官僚の制度はそのまま残り、今の状況に引き継がれている。確かに人物を評価する一番公平な方法は試験であろうが、そろそろ限界がきているようである。ことに外務省のようなところは、海外の4年生大学、大学院大学を卒業した人材や、現にNPOなどで国際的な活躍をしている人物を積極的に用いるべきで、官僚になってから短期の留学をさせるのではなく、民間企業のような面接を主体とした人材登用方法が活用されてもよかろう。明治初期の登用制に一部は戻すべきであり、民間企業で試験のみで採用を決定しないのは、こういった試験のみに優秀な人物が実社会では役に立たないことがはっきりしているからであろう。ただし人物を観る試験官がいるかという問題が残るが。

2 件のコメント:

清水唯一朗 さんのコメント...

こちらのポスト、大変勉強になりました。ありがとうございます。唐澤富太郎『貢進生』所収の「貢進生一覧」によれば、弘前藩からは、川村善八、佐々木正、出町大助の3名が貢進生となっています。斗南、黒石、八戸からもそれぞれ1名あるようです。ご参考までに。

広瀬寿秀 さんのコメント...

勝手に先生の本から引用して申し訳ございません。弘前藩から大学南校、東校に派遣されたエリートは、その後、ほとんど歴史から消えています。唯一、東校に進んだ佐々木文蔚については松木明知先生の研究で、ある程度わかっています。卒業後、県立松江病院長、宮城医学校校長兼病院長と、県の医療行政の関わり、その後、海軍大軍医、海軍医学校教授兼監事を務め、軍艦「千島」の軍医長としてフランスより日本に帰る途中に英国商船ラヴェンナ号と衝突事項で殉職しました。享年40歳でした。他の学生についてはほとんど記録はありませんが、もう少し調べてみたいと思います。