2014年5月9日金曜日

慶応義塾と東奥義塾


 慶応義塾は、そのハイカラなイメージからか、田舎者の津軽人にはどうも敷居が高い。そのため弘前高校から早稲田に進学する者がいても慶応に進学する学生は少ないが、幕末から考えると、弘前藩から福沢塾で学んだ者は多く、全部で135名を数える。それでも福沢の門下生12063名から見ると、四十八都道府県では三十二番目で決して多い方ではない。


 数は多くはないが、福沢塾に学んだ吉崎豊作、佐藤弥六、田中小源太、三浦才助、成田五十穂、菊池九郎などの有力者がいて、とりわけ佐藤弥六は福沢から信頼が厚かった。福沢の手紙では「此人は佐藤弥六と申、旧津軽藩士、本塾へは多年寄宿、人物は極慥(たしか)にして、少し商売の考も有之、失敗は致候得共、丸屋にも大に関係して、早矢仕君もよく知る所なり。過般出府の処、是れと申仕事も無之、就ては真利宝会社中として、弘前に居ながら相勤め、青森地方の事を引受候様の義出来申間布哉」と書いており(ここまで、「幕末・明治初期の弘前藩と慶応義塾—「江戸日記」を資料にしてー」 坂井達朗、近代日本研究から引用)、実際に福澤は佐藤弥六を塾の会計を担当させたり、後日、オランダ公使として推薦したりしている。


 維新後、早い時期に弘前でも近代的な学校を作ろうと、菊池九郎を中心として機運が盛り上がり、そのモデルとしてかって菊池が学んだ慶応義塾が頭にあった。弘前藩の藩学校であった稽古館、弘前漢英学校は廃藩置県に伴い廃止されることになったが、田舎だからこそ優秀な人材を作らねばという菊池の熱い思いは、まず慶応義塾から優秀な教師を派遣してもらい、福沢塾で学んだ弘前藩士を教師にして私立の学校を設立しようと考えた。


 おそらくここで菊池は上京して直接に福沢諭吉に頼みこんだと思う。福沢に信頼の厚い佐藤弥六(1842-1923)も同行したのであろう。佐藤弥六は、福沢諭吉の片腕で慶応2年から4年まで塾長を務めた小幡篤次郎(1842-1905)とは生まれ年が同じであり、塾生の中でも仲がよかったのかもしれない。山鹿旗之進の回想によれば「義塾という名称は、福沢先生と小幡篤次郎先生とが、命名されたものであろうとは、私が嘗て菊池九郎先生より承ったことだ。」(東奥義塾再興十年史、東奥義塾学友会、1931)。菊池は嘘を言わない人なので、東奥義塾の命名は福沢諭吉と小幡篤次郎によるものと思える。さらに福沢らは義塾の逸材、永嶋貞次郎と吉川泰次郎を東奥義塾の教師として派遣し、佐藤弥六が東京から弘前まで随行した。


 義塾とは英語のパブリックスクールの和訳であり、明治になり全国で100を越える義塾と名のつく学校ができた。多くは福沢塾で学んだ人物が勝手に作ったもので、慶応義塾とは直接関係はない。唯一、分校として認められたのは明治7年にできた京都慶応義塾、明治6年にできた大阪慶応義塾と、その後継の徳島慶応義塾である。しかしなから京都、大阪、徳島慶応義塾はわずか1年足らずでいずれも閉校している。こういった中で、明治5年11月にできた東奥義塾は義塾と名のつく学校の中でも比較的早い創立であり、また今日まで存続している唯一の学校である。慶応義塾の直系とは言わないまでも傍流として慶応義塾とは密接に関係している。先に引用した慶応義塾大学の坂井先生の論文に中に『東奥義塾の独自の学風は「福澤流の実学精神にキリスト教が結合した」、「他の私学には見られない特徴であった」』(弘前市教育史)となっている。キリスト教の方は、本多庸一はじめ、東奥義塾と関係のある4名の院長を生んだ青山学院に繋がる。すなわち東奥義塾は、慶応義塾と青山学院の両者の学風に弘前藩校「稽古館」の伝統が混じった学校と言えよう。明治34年に財政難より弘前市立弘前中学校東奥義塾(その後、青森県立弘前中学校東奥義塾)となったが、その存続条件のまっ先に「東奥義塾の名称存続の事」を菊池を挙げた(菊池九郎小伝、昭和10年)。非常に思入れの深い学校名であったのであろう。

 惜しむらくはここ数年の東奥義塾の進学状況を見ると、青山学院、慶応義塾への進学が0から2名というのは残念である。写真は佐藤弥六。

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