2014年5月4日日曜日

今東光 2





 大阪に帰省した折、以前からお会いしたかった今東光研究家の矢野隆司さんと会ってきた。7時半から高校のサッカー部の友人と飲む約束をしていたので、わずか1時間程度の雑談だったが、内容の濃い会話ができ、とてもうれしかった。何でも今年の春に大阪府八尾市に今東光資料館ができるようで、また岩手県の浄法寺市では今東光、瀬戸内寂聴記念館が計画されている。ちょっとした今東光ブームが来るかもしれない。

 今東光は天台宗の住職であるが、母方の伊東家、父方の今家ともにキリスト信徒が多く、今東光自身もキリスト教の影響がなかったかという話題となった。今東光の母親、あや(綾)の兄、伊東重は東奥義塾の学生時代に受洗した。明治8年、宣教師のイングから最初に受洗した14名の一人である。弟の伊東基も明治10年の「聖書会読」の書庫係補佐をしていることから、早い時期に兄と同じく受洗したであろう。一方、今東光の父、武平の兄、宗蔵も受洗し、本多庸一などとともに民権運動で活躍した。あや自身も函館の遺愛女学校の3回生で、卒業後も東京の明治女学校で勉学を続けた。開校当初の遺愛女学校は宗教色が強く、1、2回生の生徒の多くはここでキリスト教徒となったが、明治女学校は校長の厳本善治はプロテスタントの教徒であったが、宗教色はそれほど学校には持ち込まなかった。遺愛から明治女学校への転校は、あや自身、キリスト教徒になる踏ん切りがつかなかったことによるのかもしれない。

 私が卒業した六甲学院は、上智大学系統の学校で、姉妹校としては神奈川の栄光学院、広島の広島学院があったが、校長はドイツ人、他にもスペイン、アメリカなど多くの外人神父がいたし、日本人教師にも神父が多くいた。系列学校の中でもかなり宗教色の強い学校であった。そのため、入学当初の信徒数は10名ほどであったが、卒業時には確か数十名いたように思う。在学中に洗礼を受けた学生が多くいた。毎年、クリスマス前になるとその年に洗礼を受けた学生を迎えてパーティーが行われた。コーヒーとケーキが出されるようなもので、私などは信徒でもないのに毎年、出席していた。また日曜日になると六甲教会に行ったり、サッカーの神戸市代表として広島に試合に行った折は、広島学院に転勤となった神父さんから広島教会を案内してもらったりした。かなり教会が身近な存在であった。またクラスメートの中には、信徒になると、教会で海星女子や小林清心の女学生と会えるといった不純な目的で教会に行くうちに信徒となったものもいる。ところがこういった連中が今はどうかというと、それほど真面目な信徒は少ない。教会にもほとんど行かず、聖書も読まない。中高生時代に何かに拍子に受洗したものの、それほど強い動機がなかったためであろう。それでも一人、上智大学に進学し、神父になった同級生がいるので、まだ救われる(文学部教授の長町神父)。

 話を戻そう。今東光の母、あやはキリスト教には愛着はあったことは、生涯聖書を所持したことからも伺われるが、受洗まではしなかったのであろう。東奥義塾においても外人宣教師はできるだけ多くの日本人信徒を作ろうとしたが、創立者の菊池九郎自身が宗教との距離を置くようにしたことから、明治中期からの受洗者数は減っていく。中国革命に従事した山田純三郎も学生時代に受洗したが、その後の活動にはそういった匂いはない、ただ後年、自分が悪さをしなかったのは昔、教会に行っていたおかげだと言っているように、心の奥隅には精神的な規範として生きていたのであろう。ここに至ると、受洗の有無はあまり関係なくなる。


 今東光について言うと、遺愛女学校の幼稚園から始まり関西学院と、母あやの周囲の人物も含めて、幼少期からかなりキリスト教色に強い環境にあり、知らずに影響を受けたものかもしれないし、逆に反発もあったかもしれない。

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