2014年11月7日金曜日

神風号 東京ーロンドン大飛行





 神風というと神風特攻隊のことを考えるひとも多いが、戦前、神風と言えば、ほとんどの日本人は昭和12年に日本—ロンドン間、15357km94時間で飛んだ朝日新聞社「神風号」を思い浮かべた。この飛行は、当時の日本人からすれば、まさに東京オリンピックの女子バレー、日本—ソ連戦、力道山、ファイティング原田の試合、を越える熱狂的なものであった。

 というのはこの飛行は、朝日新聞が社運を賭けて宣伝したもので、昭和12年の元旦号で毎日新聞に部数で負けていた朝日新聞が“東亜連絡記録大飛行”と銘打った7段抜きの広告を行った。純国産機で日本からヨーロッパに飛び、その年の5月に行われる大英帝国国王の戴冠式を祝うためである。大掛かりな宣伝、賞品、関連グッズと、日本中が大変な騒ぎとなった。

 使用機は陸軍が高速偵察機として試作されたキー15、後に正式採用された九七式司令部偵察機を用いることにした。この機体の誕生には、弘前出身の藤田雄蔵大尉(後に中佐)が関わっている。昭和10年、藤田大尉は「航空作戦に必要な偵察や戦略的偵察に使用するための速度。高度性能、航続距離の優れた軽武装の機体」を意見具申した。航空本部内にも反対が多かったが、藤田大尉の粘り強い説得でK-15の名称で2機の試作が認められた。エンジンは550馬力という非力なものであったが、軽量、流線型、抵抗性の軽減などにより480kmという高速を記録した。一号機の完成は昭和11年5月で、朝日新聞にしてもこの機体を使う予定で、大飛行を計画したのだろう。それにしても陸軍はよく虎の子の最新鋭機を提供したものである。航続距離は一応2400kmとされたが、2機しかない試作機ではこの数字もあやしいものである。

 乗務員は朝日航空部員の操縦士は飯沼政明(26歳)、機関士に塚越賢爾(38歳)が選ばれた。昭和12 41日に、2万人の観衆の前で羽田空港において出発式が行われ、滑走路の長い立川陸軍飛行場から翌日の午前1時に出発した。ところが悪天候と無線機の故障のために、九州南部から引き返し、実際に出発したのは46日の午前2時に立川飛行場から出発した。台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バクダット、アテネ、ローマ、パリと着陸して、49日、午後3時30分にロンドンのクロイドン飛行場に着陸した。所用時間は94時間1756秒(飛行時間は51時間1923秒)で新記録であった。所用時間については朝日新聞で懸賞があり、4745791通の空前の応募があり、何と秒まで的中したのが5名いて、抽選で13歳の少年が一等、賞品は金杯の他、賞金1000円であった。(航空ファン2007.8月号を参考にした)

 神風号については小学校からその姿が好きで、プラモデルも何機か作ったが、10年程前まで塚越機関士が日英の混血児であることを知らなかった。航空ファンを見ると、塚越機関士は混血といっても、その外見は全くの外国人である。英国への飛行ということもあったのかもしれないが、優秀な機関士であったため、選ばれた。塚越賢爾の父、金次郎は東京で弁護士、検事をしていた。母、エミリー.セイラー・ボールドウィンは看護婦で、金次郎が英国留学中に知り合い、結婚した。その後、母親は精神的に不安定になり、二人の子供を英国に連れ帰ったが、孤児院に預けたまま行方不明となった。神風号の英国への飛行は、塚越機関士にとっては、行方不明になった母との再会を期待したものであったが、ついに再会は叶わなかった。こういったことは戦前、伏せられ、塚越機関士については、その風貌を国民の眼からは隠された。

 飯沼操縦士は、昭和161211日、プノンペン基地で誘導路を横切ろうとしたときに、走りははじめた機体のプロペラに撥ねられて即死した。機体は独立第71中隊の九九式軍探機であった。

 ニューヨークまでの無着陸飛行を狙ったA-26機で、1943年に東条英機首相の命で日独連絡飛行が行われることになった。搭乗員は朝日航空部から5名、陸軍からは飛行指揮官と参謀本部員2名の計3名が同乗することになった。この中に塚越機関士が含まれた。南周りのコースがとられ、シンガポールからインド洋を越えてクリミヤ半島のサラブスに飛ぶ予定であったが、この飛行中に英空軍によって撃墜されたと言われる。母に捨てられ、その母の母国、英国空軍によって撃墜された。


 動画には、英国大使をしていた吉田茂が写っている。この頃の吉田は森繁久彌にちょっと似ている。

 航研機の飛行と藤田雄蔵中佐が写った動画があったので、貼っておく。上記の神風号と同じ昭和12年だが、フィルムがかなり不鮮明で、日英の差がある。航研機は実験機であるが、その乗り方はすごい。ロープにつかまって登っていく。




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