2016年2月14日日曜日

尼崎の映画館



 尼崎に帰省した折、テレビでダウンタウンの浜ちゃんが子供の頃に行った阪神尼崎近くの尼崎東宝を探すという番組があった。道行く人に聞いてもなかなかわからない、どうしてわからないのかと、見ているうちに腹が立ってきたが、映画館がなくなってすでに2,30年はたっているのだから、若いひとに聞いてもわからなくて当然であろう。

 昭和30年から40年ころ、阪神尼崎付近は尼崎でも最も繁華街で、三和および中央商店街は多くの買い物客でごったがえし、パチンコ屋、映画館などの娯楽施設も多くあった。阪神尼崎側から中央商店街を北へ過ぎた次の道、中央交番の斜め前、飲屋街の入り口には「尼崎OS劇場」(1)があった。その前の名前は忘れたが、梅田のOS劇場にあやかって大画面のスクリーンで洋画を中心に上映していた。尼崎にしてはモダンな映画館で、飲食などの設備も充実していた。その道を左に折れてまっすぐ進むと、右手にやや小さい映画館、「東洋劇場」(2)がある。OSが話題作を中心に上映していたが、東洋劇場はやや小粒な洋画がかかっていた。私が最初に見た映画は、親父に連れられて見た「思い出のサンフランシスコ」であった。トニー・ベネットのヒット曲にあやかって製作された映画で、内容はたわいもないものであった。「グレンミラー物語」や「シンドバットの冒険」などを見た記憶があり、なつかしい。さらに行くと左に「尼崎東宝」(3)がある。ここでは「モスラ対ゴジラ」などの怪獣映画や、それと同時に映写された「若大将シリーズ」をよく見た。子供のころ最もよく行ったのがこの尼崎東宝で、普通の映画館であった。この尼崎東宝に行く手前の商店街を右に抜けて国道二号線を越えたところに「尼崎松竹」(4)があり、「ガメラ」や「男がつらいよ」などがかかっていた。この映画館の道を挟んだ横には阪神トルコというソープランドがあった。当初は首を箱から出すまともなサウナ施設であったが、しだいにいかがわしいものとなり、尼崎市ではこうした施設は禁止しているが、ここだけが既存の権利があり、今でも阪神ファッションソープという名で営業している。建物は昔のままである(中は知らない)。また国道沿いには三和本通入り口までに確か2軒ほど映画館(?付近)があったが、どんな映画館が忘れた。

 尼崎東宝に話を戻すと、ここをさらに西に向かって次の道には、ストリッパー小屋があり、三和ミュージック?(5)だったか。その前は大衆演劇などをしていた演芸場であったが、お客が来なくなったせいか、昭和40年ころにはストリップ小屋になっていた。この当たりから北に向かった近藤病院にかけては立ちんぼの女の人がいて、国道を渡ったところにラブホテルが乱立していたので、そちらに客を連れていったのだろう。私の場合、阪神尼崎で降りる時は、中央商店街から右に折れてこの道を通って家に帰るので、夜は怖いところであった。


 中学生ころになると、学校が神戸にあったので、尼崎の映画館に行くことはほとんどなくなり、正月に親父と尼崎松竹に行くくらいで、もっぱら神戸のビック映劇か、新聞会館のスカイシネマに行っていた。イージライダー、いちご白書など青春のほとんどの映画はここで見た。一方、高校生当時、寺山修司の映画などは独立系の映画会社で上映され、既存の映画館でない会場でやっていた。場所は忘れたが大阪のあちこちの会場に行った記憶がある。予備校の時はジャン・ジュネの「愛の唄」という映画が、神戸の新聞会館でやることを知った。参加したところ、何とオカマの東郷健の引退記念会だった。ショーの一貫としての映画で、これもゲイを扱ったものであった。オカマちゃん達のストリップショーから始まり、参加者のほとんどがゲイの方々。そこに18歳の私というすさまじい状況で、隣のおじさんはひざを触ってくるわで、恐ろしい経験であった。こうして経験は、新宿の映画館でもあったし、インドのデリーの映画館でもあった。映画館という暗い空間は日常を離れた淫らな雰囲気のところである。

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